友の死は知りたい

 転移のある肺癌とわかって十ヶ月目のソニアが、治療の合間に移住先だ
ったスペインに一週間ほど戻ると言うので、帰国した頃を見計らってメー
ルを送るも返事が来ないと、最悪を予感して、別のフランス人の友にソニ
アの出生記録がある役所に問い合わせてもらい、ソニアの死亡がわかった。
 生まれる時も一人なら死ぬ時も一人、とはよく言われることだが、生き
ている間は決して一人ではない。
 水道ガス電気のない孤島で一人暮らしをした場合には、動植物や自然の
恩恵を実感するだろう。人は一人では生きられないのである。
 だから、親しかった人と突然連絡が取れなくなったら、それが死により
そうなるしかなかったのなら、私はその事実を教えてほしい。でないと、
その人の生の完結を受けて、私とその人の関係も正しく完結したくても、
できないままになる。
 ソニアがフランス人でよかった。
 これがニホンなら、個人情報保護法とか言って教えてもらえなかったの
ではないか。死者に属する情報は保護の対象にならないが、その情報は死
者の身内にとっての個人情報になる、という論法で。
 けど、と私は思う。
 生まれて、死ぬ。
 そういう宿命のもとにある私達なのだから、死は、死だけは、誰の死で
あれ、人の共有財産として、知りたい人には教えてあげたいと心が動くの
が人の自然ではないか。
 それに、保護保護と言うけれど、立場上その情報にアクセスできる人が
いるということは、完璧な保護はない。
 もちろん、戸籍や住民票を頼らずに済む仲間のネットワークがあれば問
題は解決する。
 ただ、メールやスカイプが主な連絡手段になっている関係だと、家人が
喪中葉書を送ってくれたくても、そもそも私の存在を知らなかったり、知
っていても連絡方法がわからないことは十分あり得る。
 かようなことをつらつら考えさせられた今回であるが、気がついた。
 親しい人の死を知る手立てがないまま放置されるのは嫌だと思っている
私自身が死んだら、フランスの友人知人に、私はその最も嫌なことを強い
ることになる。
 そういう時のために、手紙と送ってほしい相手の連絡先を用意しておく
べきか。
 あるいは、疎遠になったら、その理由を探らず、さっさと記憶のアドレ
ス帳から消し去るのがこの世の正しい生き方で、私は慣れればいいだけな
のか。
 でも私は、年賀状だけの関係になっている人から今年で年賀状はやめる
と宣言されても、さみしい気持ちになる。