キャラ弁は愛ではない

 稲垣えみ子が光熱費を限りなくゼロにする生活に至るまでの顛末を書い
た『寂しい生活』の中で、冷蔵庫も洗濯機も掃除機も全部なくしたら家事
が大好きになった、なんせ掃除も洗濯も十分間で終了、料理も同様、ご飯
と味噌汁が基本だから、ところでそもそも私達は毎日ご馳走を食べる必要
があるんですかね、と問題提起する文章まで来ると、キャラ弁には無条件
反射で眉をひそめたくなる私自身を思った。
 小さい弁当箱に広がる絵画的世界。
 だが、海苔を眉や目の形に切って、土台となる食材の上に載せるのは、
海苔に手で触る時間が増えるから、衛生的に気持ち悪い。
 今日はこういう絵、という目的のために、おかずのバランスや量が犠牲
にされることもあるのではないか。
 もちろん、私の正論が絶対に正しいとは限らないことはわかっている。
 ただ、こういう論拠では私の違和感を本当には言えていない気がして、
もやもやするのだ。
 と、ママは手を抜いてもいい、オンナをしてもいいという類いのママ応
援歌が蔓延し始めている昨今の風潮に関して、子供がちゃんと自立できる
ように育てるのが子育ての本質だろうに、子に手をかけすぎて母親自身が
育つようになことばかりしてどうする、疲れてどうする、と述べる男性の
ブログに遭遇して、気がついた。
 食の本質は空腹が満たされること、次の段階は栄養のバランスが取れる
こと。
 キャラ弁は見た目を競う芸であり、食の根幹ではない。
 見た目は良くても味はどうなの献立の中身は、と指摘する私は、だから
全く的外れというわけではあるまい。
 だが、愛はかけた時間に比例する、という考え方がある。
 キャラ弁の達人は、純粋に自分自身が楽しいから、そして蓋を開けた時
の子供の驚く顔を想像するのが嬉しい、と無邪気な気持ちでしているだけ
かもしれないのに、真似できないと思うと、普通の弁当より手間がかかる
キャラ弁の方が愛情がこもっているという裏メッセージも発信されている
と受けとってしまうのではないか。キャラ弁能力がないと子供への愛が足
りないと言われている気がする、ということだ。
 独身の私ですら、そう感じる。
 キャラ弁が得意な人は、掃除、洗濯はからきし駄目かも、と想像して頭
を冷やすことだってできるだろうに。
 キャラ弁が作れない私は駄目。家をすっきり片付けられない私は駄目・
・・。
 それぞれの分野の第一人者を見上げて、すべてで優秀になれない自分自
身を嘆く。
 自分いじめだな。
 そんな快感はもう手放そう。