「謝る」真意

 その叔母は、割と頻繁に私に電話してくる。
 が、まずはメールで、
「今、電話してもいい」
 と打診。
 その際必ず、
「ごめんね」
 のひと言が付いてくる。
「謝るぐらいだったら、電話、やめようか」
 開口一番、私が言う。
 叔母はひるんで、
「私、偽善者かなあ」
 いや、覚悟がないだけだろう。
 私の時間を奪うのは申し訳ないと思っても、話し相手になってほしい気
持ちが上回ったのなら、素直にそういう自分であると打ち出し、それで万
一私から疎まれたら、その時初めて恐縮すればいいのであって、最初に、
「ごめんね」と牽制されたら、私が困る。
 というのは、叔母の長電話に付き合うことになるんだと思うと、本当は
今じゃない時の方がありがたいんだけど、とちらっと思ったことが蘇るか
らだ。
 それでも、
「いいよ」
 と答えた私。
 その「いいよ」はどれぐらい真実だったのだろう。
 私自身の誠実さが不安になってきて、要は、私の中で解決していたこと
を再度意識させられ、非常に面倒臭いのだ。
 こんな叔母だが、
「テレビがちっとも良いのをやってないから」
 でも、一時間後に見たいテレビが始まるので、
「今日はそれまでのあいだね」
 と言ったりするので、あの「ごめんね」は自分の都合を謙虚そうに押し
通すための常套句なんだ、と苦笑いできるのだった。
「すみません」は、自分が悪いと認めて、発する言葉。
 ところが、個人的に英語を教えている学生達も、よく言う。
 習ったばかりのことは間違えて当然。
 なのに、私が間違いを指摘すると、反射的に、
「すいません」
 とりあえず謝っておけばいいという安易な処世術でいなされた気がして、
不愉快。
 しかし、そういう子達は多く、毎回、
「謝るとしたら、その相手は自分自身でしょ。私に謝られても」
 と諭すのだった。
 と、一人が、
「謝ったら、学校の先生がいい気分になるから」
 と教えてくれ、私はのけぞった。
 こんな気の遣わせ方をさせて、まともなのか、良い歳の大人達。
 スーパーマーケットで、カート置き場に真っ直ぐに入れられなかったの
は、斜め横から手を伸ばしたが、持っていた荷物が重すぎて、うまくいか
なかったから。
 真っ直ぐに入れ直そうとしたら、後ろからガチャンと追突するカート。
「ちゃんとせんかい」
 高齢男性だ。
 あんたが待たないからだろう。
 人に罪悪感を与えて謝らせたい大人は多いのか。
 だから、叔母や学生達のように予防線で身を守るのか。