記憶の倉庫

 記憶の善し悪しは何で判断されるのだろう。
 そう思ったのは、この一ヶ月のあいだに起こった印象的な事も、刺激が
なければ、思い出せないことに気づいたからだ。
 刺激とは、私の場合は日記。パソコンに書いている。
 その時刻にどこへ行ったのかを列記するだけの行動メモだが、その時強
く思ったことを書いてこそ、日記。だが、長文になりそうなので、あとで
書こうと黒丸をつけておく。ところが、結局、書かなくて、その印を見て
も何を書きたかったのかが思い出せない。
 そのひと言で記憶が蘇るような単語と、その時の気持ちをひと言。それ
でいいと思うが、実行できない。どういう頑固さなんだろう。
 先日。
 病院の受付カウンターに立つ高齢男性の足もとに帽子が落ちている。彼
の足の動かし方次第では踏んづけそう。
 だが、そこから離れる時に気づくだろうと期待しつつ息を潜めて見てい
たのが私を含めて最低三人いたのは、彼がそのまま立ち去りかけるや否や、
三人が一斉に、
「帽子!」
 と叫んだことからわかった。
 彼は礼を言い、
「歳を取ったらあきませんわ・・・」
 と頭を下げた。
 私がソファにリュックを置いて立っていると、そのすぐ後ろの通路で、
その彼を女性職員が背中から抱えるようにして、彼が行くべき診療科まで
連れて行こうとしつつ、彼に話しかける。
「今日は一人で来はったんですか」
 彼が言った。
「帽子がない」
 病院の用紙と一緒に彼が握っているのが私の位置から見えたので、そう
伝え、被っておけばいいのではないかと提案したら、
「帽子は、中に入ったら脱がなあかん」
 礼儀を重んじる姿勢は美しい。
 しかし、そのせいで自分自身にいろいろ面倒が起きるようになったら、
「もうできなくなりました。ごめんなさい」
と諦められたら楽だろうになあ。
 そうできないところに、その人の正義と自由がある。
 そんなことを思わされた出来事だったが、病院のカウンターで私が思い
出すべきは、傘を引っかけていたら、離れる時、カウンターの下の部分に
引っかかった露先(つゆさき)が安いビニール傘みたいにたわんでくれず、
ポキンと折れたことだ。傘が壊れたのに、日記に書いたのが目に入って、
ようやく思い出せた。
 Macのマウスが壊れ、買い物用のカートの金属が取れ、ほかにもいろい
ろ壊れたこの二月。
 だが、それらはもう記憶の倉庫の奥深く。
 一体どういう記憶なら、倉庫を抜け出て我が物顔で私の脳裏を闊歩する
のだろう。