ホスピタリティとおもてなし

 今も世界各地で戦争が起こっているが、ロシアのウクライナ侵攻は、腹に
ズドンとくる衝撃だった。
 ロシアが救世主として隣国ウクライナを救うのだ、というような勝手な大
義名分で侵攻を開始。結果が芳しくないと、理屈は二転三転。それだけでも
突っ込みどころ満載だが、その破綻した論理を誰も突っつかない。正論が通
じる相手ではないし、そういう言葉の応酬の合間にも攻撃は過激になるとわ
かっているからだろう。
 実際、極超音速ミサイルが使用された。
 国盗り物語
 さすがにもう過去の話、と私は心のどこかで思っていたのかも。今の世界
地図は最終形だと。
 だが、呆気なく塗り替えられる可能性に気づかされた。
 今、国境を越えてきたウクライナの人達を、隣国の民が自宅に迎え入れて
いる。
 ああ、これか。
『ああ無情(レ・ミゼラブル)』のジャン・バルジャンは、盗みの前科のた
めに宿泊を拒否されるが、教会の司祭に招き入れられた。
 この場面をどう受けとめていいのかわからなかったが、キリスト教精神で
は当然なのかも、とは推察できた。
 それに、戦争のたびに国境が変わり、難民が生まれる経験してきた遺伝子
は、弱者に手を差し伸べる精神を有するようになったのかもしれない。
 私があなただったかも、という視点だ。
 私は、友に会いにフランスに行くと、どの人からも家に泊まるように言わ
れ、拒否しようものなら、懐柔著しく、無言の圧力をかけられる。
 不思議だった。
 私にあてがわれる部屋は客室ではない。
 その部屋の持ち主は、私がこっそりクローゼットの中や引き出しを覗くか
も、と警戒しないのか。
 盗まなければいいのか。
 だからこそ、ジャン・バルジャンが銀の燭台を盗んだひと幕は、私が想像
する以上の怒りをヨーロッパの読者に与えるのかもしれない。
 相手を選ばず泊めるとそうなる、と冷めたことを思ってしまう私とは、や
っぱり根本的に何かが違うのだろう。
 こんな私は、見られていなくても、やましくないよう、あてがわれた部屋
ではベッドと私自身のスーツケース以外は触らないようにするので、人の家
に泊めてもらうのは意外と気疲れするのだ。
 ホスピタリティの日本語訳は「おもてなし」。
 でも、文化が違うと中身は随分違ってくる気がする。
 ただ、良くも悪くも世界は狭くなり、良きことを自分達の文化に取り入れ
やすい時代になった。
 接客、接待のような外向きの対応に留まらず、家族の一員と見なす「おも
てなし」も、そのうち日本文化に根付くかもしれない。