『笑ゥせぇるすまん』

 用があり、そこを通りかかると、男が背を向けて立っている。
 男の前方に緑が広がっているので、人を待つなら、その方向を見ている方
が自然である。
 男が振り返ったのは、私の足音を、待ち人と間違えたのだろう。
 ほほえましい。
 だが、別の日も、その時刻前後に通りすがると、男が振り返る。
 十分ほど時間をずらして行くが、やっぱり振り返る。
 さらに十分ずらしても。
 約束の時刻よりどれだけ早く来ているんだ。
 なんにせよ、無関係な私を見て、「ああ、また会えた」みたいな表情をし
てほしくない。
 私は、私のせいではないのに時間を気にしなくてはいけなくなり、この世
は誠に理不尽である。
 次に行ったら、ようやく、いなくて、ほっ。
 視線を遠くに向けたら、男は一人で歩いている。
 この瞬間、私は、この男の人生になんと甘い夢物語を想像したのだろう、
と苦々しさが込み上げてきた。
 そして、腹立たしきは、目に焼き付いた男の服装。
 服は本人の好みの凝縮だから、季節が変わっても印象は変わらない。視界
に入ったら、すぐ目をそらしたのに、記憶に刻まれてしまった悔しさは、ま
さしく「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。
 あと、顔。
「蓼食う虫も好き好き」ゆえ、私の好みが唯一絶対の美の価値基準だなんて
思っていないが、「何かに似ている」とずっと思っていた。
 すると先月、四月七日。
 藤子不二雄(A)の逝去を伝えるテレビのニュースで代表作が紹介され、
その中に『笑ゥせぇるすまん』があった。
 主人公、喪黒福造(もぐろふくぞう)を見て、私は、
「あっ」
 長らく喉に引っかかっていた小骨が取れた。
 私が思い出したかったのは、この顔だった。
 でも、私は漫画は数えるほどしか読んでいないし、少なくとも、この漫画
は初めて知った。なのに、いつ、記憶に刻まれたのだろう。
 どっぷり、はまり込んでいなくても、そこはかとなく目にし、耳にする。
それだけでも、その時代の空気に触れたことになり、文化の端っこに辛うじ
て引っかかっているだけでも、結局は、ど真ん中を生きている人達と大差な
いことになるのかもしれない、とウクライナ戦争で国を逃げ出す人達を見て、
思った。
 大人には、文化の記憶がある。
 その根がない子供達は。
 親が家で食事や風習を伝えるんだろうけど、暮らす国の影響力はそれを凌
駕する。
 文化とは、生きている場所から与えられ、身につくものなのだろうな、と
今まで意識していなかった文化について考えさせられたのだった。