列車非常停止ボタン

 きのうは早く帰りたかった。
 十年に一度の寒波に襲われた水曜日もやっぱり早く帰りたかったが、私が
乗り換える列車の本線で人身事故が発生して全線停止になり、そうでなくて
も雪で列車の運行が乱れていて、別の鉄道に乗り換えて、ちゃんと帰れるの
かと雪の深夜にヒヤヒヤさせられたのだ。
 きのうは雪は降らなかったし、列車の遅延もなかったけれど、やっぱり早
く帰りたい。
 乗り換えのホームまで来たので、一分後に入ってくる列車に乗れたら大丈
夫。
 と、視界の隅に妙な動き。
 人が線路に落ちようとしている。
 物は、落ちる時、放物線を描く。人は重たいから、ホームから落ちるとし
てもすぐ近く落ちると思ったからか、その人が線路に覆い被さるように倒れ
込んだので、自発的に加速したのだと思い、状況が読めない。
 列車が来る前だから自殺ではない。
 が、今にも列車が到着する。
 私は近くの鉄柱の周りをぐるっと見た。
 なぜそこに正解があると知っているのか我ながら不思議だったが、普段か
ら見ていないようでも見ているということかもしれない。
 隣の柱に、求めていた赤々と目立つ出っ張り。
 しかし、「列車非常停止」。
 私はその人を助けたいのだ。乗務員に来てほしい。列車を止めたいわけで
はない。ボタンを押せない。
 救いを求めて少し上を見ると、ホームから人が転落した時、というような
説明書きあったので、じゃあ、押していいのね。
 ちょうど、若い女性が二人近寄ってきたので、
「これをしたらいいんですか」
「はい、そうです」
 ボタンを押すとファンファンと大きな音が鳴り始め、ホームの上の信号機
のような赤色も光る。
 乗務員は来ない。
 いたずらで誰かがボタンを押したのかもと防犯カメラで確認しているのか
と思ってしまう。
 いつボタンから指を離していいのかわからなくて、押し続ける私。
 向かいのホームから男性が線路に降りたのは、そちらのホームにも列車は
来ないと確信があるのか。
 ようやく乗務員が駆けつけ、数人がかりで倒れた人をホームに上げ、乗客
の誰かが、
「医者か看護師はいませんか」
 ドラマで聞くような言葉を叫ぶ。
 意識のない乗客の周りに人が集まっていて、私の役目は終わった。
 けど、どうして私より先にボタンを押してくれる人はいなかったのだろう。
 そんな大役、私は引き受けたくなかった。
 幸い、乗務員から声をかけられることもなく、私は闇に紛れる気分で、少
し遅れて入ってきた列車に乗った。