自分の感覚

 歯医者に早めに着いたので、受付横の歯ブラシのコーナーで見本を手に取
った。
 いつも、歯のメンテナンスのあと、歯科衛生士が新しい歯ブラシを使って
歯の磨き方を指導してくれたあと、その歯ブラシをくれるのだが、次の時ま
でにもう一本必要になったらスーパーマーケットに買いに行く。
 ところが、売り場の前で呆然。
 種類が多すぎる。
 ようやく満足いくのに出合えたので、次に買う時のために容れ物を取り置
いたが、もう記憶した、と捨て、使い終わった歯ブラシも捨てたら、売り場
に行っても思い出せない。
 歯科医でしか買えない歯ブラシならどれを選んでも安心かなあ、などと名
前を呼ばれるまで時間潰しをしていたのだが、案内されて席に着こうとした
瞬間、
「あっ」
 マウスピースを持ってくるのを忘れた。
 歯の様子を見れば大丈夫ですと歯医者は言うが、今のマウスピースはかな
りすり減り、穴が空き、それでもまだしばらくは使えると言われている状態
だったので、点検して表面をならしてもらうのを一回抜かすのは不安すぎる。
「十分で戻ってこれるんですが」
 十分ならということで許可を得、『走れメロス』の主人公よりは自分自身
に甘く、小走りと歩きを組み合わせて十二、三分で戻ってきた。
 着席すると、暑い。暑すぎる。
 セーターの袖を肘までまくり上げる。
 パンツの下はタイツなので、体温が逃げてくれない。
 この冬、自社基準によると最高のランクの暖かさだという下着メーカーの
足首丈のタイツを買ったが、私が履くと足首まで来ない。ソックスを履いて
も、母がよく言っていた「縁が切れる」状態で、タイツとソックスの隙間か
ら体温が逃げる。寒かったその日はわざわざ爪先までのタイツを履いたのだ
が、誤った判断だったようで、ただもう暑い。
 でも、ほかの人は不満はないみたい。
 まあそうだろう。
 私自身、そのうちセーターの袖を手首まで戻したし、タイツを履いてきて
よかったと思い直した。
 院内の空調温度つまり環境は変わっていない。なのに暑いと思い、暑くな
いと思うようになったのは、私の中だけで起こった大騒動。
 こっそり滑稽な気分になる。
 将棋の藤井聡太五冠がタイトル戦で使うデジタル時計は気温を見るためも
あり、万一部屋の温度の上げ下げを求める時はそれを根拠にするのだとか。
 自分の感覚を絶対だと過信しないし、他者に押しつけることもしない。
 すごいなあ。まだ二十歳なのに。
 あすからの棋王戦に勝ったら六冠になる。
 それもすごい。