デザートはカルピス

 私は酒を飲まない。体が受け付けない。
 だから、サイバー攻撃を受けてアサヒグループ全体のシステムに障害
が発生し、主力のビール製品などの受注、出荷ができなくなり、飲食店
への被害は計り知れないというニュースを見ると、飲まずにいられない
人には災難だろうなあと思った。
「主力」をしっかり理解していなかったのだ。
 私は、今年、喘息になった時に、食べようとしても胃の中に食べた物
が入ってくるのを拒否する鉄板のようなものを感じるようになった。
 よく、少食の友達が、
「もうお腹いっぱい」
 と言って、まだ皿に食べ物があっても箸を置くのが理解できなかった
のは、私自身は、もったいないという使命感から、出された物は綺麗に
食べたからだ。
 食べようと思えば食べられる。
 ところが、胃の中に鉄板を感じると、初めて、これ以上は胃が受け付
けないという感覚を知った。
 今は鉄板は姿を消したし、当時食べていた量では足りなかったりして、
二キロなんてあっとう間に痩せられると思ったのは、あっさり元に戻っ
た。
 ただ、相変わらず野菜が中心で、食後はヨーグルトと、何か甘い物が
ほしい。
 でも、製菓メーカーのお菓子には手が伸びない。
 嫌味な言い方をすると「舌が肥えた」のか。
 毎日、和菓子の銘菓やケーキやチョコレートを一つ買う、というわけ
にはいかないし。
 どうしたらいい。
 カルピスだった。
 希釈用を、自分の味覚に合う濃さで飲む。
 ゆえに割とまとめ買いする。
 ところが先日、スーパーマーケットに行ったら、棚にいつもあるはず
の希釈用のスペースがなくなっている。少し前から、スペースはあって
もカラで、店員に倉庫から出してきてもらうことはあったが、棚からそ
の場所自体がなくなったのだ。
 青ざめた。
 アサヒのシステム障害のせいだと言われ、
「店としては、あれば店頭に出しますが」
 障害が発生したのは九月二十九日。復旧はまだ遠い先なのか。
 糖質六十%オフのが一本だけある。
 梅干しは、減塩タイプのがいろいろ出ているが、口をすぼめる酸っぱ
さがないから丸一つ食べても平気。片や、昔ながらの製法のは少量で満
足できるので、減塩タイプのボヤけた味より王道でいいと考えることは
できる。
 私は、そっち派。
 梅干しは昔ながらのが好きだし、カルピスは、糖質オフは味が好きじ
ゃない。
 でも、仕方なく買った。
 ないと困るがゆえの譲歩は、おやつがこの一択、という危うさのせい
だ。
 砂糖をコーヒーや紅茶に入れればいいんだろうけど。
 それは最終手段。

来年のスケジュール帳

 来年のスケジュール帳が出回り始めた。
 ひと月はブロックで、一週間は見開きページで縦割りになっているの
が私には使いやすい。
 なので、毎年、スヌーピーのバーチカルタイプ。
 ところが、もう店頭に出てもいい頃なのに、ない。
 インターネットでも見つからない。
 バーチカルは主流ではないし、ましてやスヌーピーということで、も
うこのシリーズは廃止になったのかなあ。
 だとしたら、悲しい。
 だって、バーチカルの部分はこれが一番シンプルなのだ。メモのスペ
ースの下にスヌーピーの登場人物の誰かのイラスト入りなのは、しっか
り見ないが、視界に良きアクセント。
 表紙も、白がベースで、スヌーピーが幼稚に目立つデザインではない。
 もし他のスケジュール帳を探すしかないとしたら。
 中のバーチカルのところが、独自性を出そうとして、朝昼晩で薄く色
分けされているのは良しとしよう。
 でも、表紙はのっぺりと一色使い。ビジネス用はことごとくそうで、
しかも黒が一番多い。
 それが私にはつまらない。
 けど、こういう私が普通じゃないのかなあ。
 シャーペンやフリクションのボールペンも、普通のも持っているが、
限定販売期間が終わったらしい時にワゴンで安売りになっているのが目
に入り、あるのをひと通り全部買ったのは、漫画の登場人物と思しきイ
ラストが、それを手に取りたいという気持ちにさせてくれるからだった。
DABIとかMIRKOという文字が印字されている。
 中学生に「ヒロアカが好きなのか」と聞かれて、『僕らのヒーローア
カデミア』とのコラボ企画なのだとわかった。
 スヌーピーもヒロアカも、そのファンだからではなく、それが使われ
たデザインが、使う時にささやかに心を弾ませてくれるので、私はそう
いう文具に心惹かれるらしいとわかったが、筆箱の中から取り出す時、
それを見て、楽しい気分になりたいではないか。スケジュール帳も、手
に取る時、ほっこりしたい。
 私はいつまでも学生時代の気分をひきずっているだけなのだろうか。
 いや、今どきは、小学生向けの学習帳の表紙も、シンプルなイラスト
になってしまった。
   私が好きなのは、昆虫や動物や花が大写しされた写真だった頃のノー
ト。色が多彩なので、それだけで嬉しくなるからだろう。必要な時は母
がたくさん買いおいていたのを使っているが、いつかはなくなるし、も
う買えないと思うと、切ない。
 少数派はつらい。
 じゃあ、カルピスは。
 カルピスが好きなのも、やっぱり味覚が子供っぽいのだろうか。

理解言語未満

 iMacを買い替えたら、プリンターとスキャナーが使えなくなった。
 メーカーのサイトで調べるが、私の能力では適切な回答を見つけられ
なかった。
 個人のサイトに紹介されている方法は、試して、パソコンの動きがお
かしくなったりしないか不安。
 メーカーの問い合わせページから相談したら、すぐに回答が返ってき
て、やっぱりこれが正当で最短の解決法だと思った。
 でも、簡単な方法で解決しそうな場合は、私とて自己解決を試みる。
 それがぐんとしやすくなった。
 Googleだと、ページの冒頭に「AI による概要」が出る。
 目障りだと感じる人もいるようだが、これで解決すれば、メーカーに
電話して長く待たされなくて済むし、メーカーもそのレベルの問い合わ
せ件数が大幅に減って、両者にとって良き事だろう。
 ただ、「AI による概要」は、そこに指示されている初めから順に試
していっても解決せず、残るはコレ、という最後の解決法が実は最終手
段で飛躍しすぎていることがある。その手前に自分用の解決策があるが、
それは載っていない。
 そういう判断をする能力は必要になる。
 鵜呑みは禁物。
 自動翻訳と同じかも。
 今、刻々と更新されるフランス語の記事も日本語変換してくれるよう
になって、すごいことになっているが、誤訳は多い。
 しかし、将棋のA Iソフトが当初使い物にならなかったのが、棋士が一
目置くまでに進化を遂げたように、この分野もほどなくその域まで到達
するだろう。
 ところで、自己解決できる不具合の話に戻るが、解決できるはずがで
きない場合、それは書かれた内容が理解できないせい、というのが結構
ある。
 Safariの最初のページには「トラッカーによるプロファイリングが阻
止されます」と出る。
 トラッカー、プロファイリングって何。
 この単語を調べれば意味がわかるが、一読でこの文章を理解できるの
が普通だとしたら、私は落ちこぼれだ。
 先日、テレビで、妻が病気になり、自分が料理を担わなくてはならな
くなった五十台の夫が、インターネットで料理の動画や作り方を見つつ
作る様子が取材されていたが、料理の作り方を聞き、あるいは読むたび
に彼が呟く言葉が秀逸だった。
「サッと炒める」のサッとって、どのぐらいの時間なのか。
「炒めすぎない」って生煮えでいいってことか。
「飴色になるまで炒める」って、なんの飴。
 真顔で冗談を言っているのかと思ったけど、彼は真剣。
 彼の疑問は、まさしく私にとってのトラッカーやプロファイリングだ
った。

パソコンを買い換えたら

 七年前に買ったiMac
 まだまだ使える。
   でも、電源を入れてから初期画面が現れるまでに数分かかる。
 マイクロソフトのWordは、アプリケーションを立ち上げようとして
も、何かの理由で強制終了、という警告が出るので、その警告を消して、
やり直し。Wordが立ち上がるまでに二時間かかることもある。
 ただ、立ち上がってくれさえすれば普通に使えるので、外出する時は
パソコンの電源を落とさないようになった。帰ってきたらすぐ使える。
 ところが、夏前からアップルサポートに何度も問い合わせなくてはい
けない不具合が出始めて、さすがに買い換え時かも、と観念。
 新しいiMacは、まあ、立ち上がるのが早いこと。数秒だ。
 WordやExcelも、もちろん一度で立ち上がる。
 けど。
 Excelで作成した表は、表内の数字が表からはみ出ている。
 年払いや月払いではなく買い切りなので、こういう不具合は起こって
当然なのか。いやいや、サポート期間内だから、不具合は、わかった時
点で更新プラグラムが解消してくれるんじゃないの。
 検索サイトで調べたら、誰かがヒラギノの書体だとそうなると書いて
いて、Osakaの書体に変換したら解決したけど、前のiMacでは正常だっ
たのに、新しいExcelだと形が崩れるって、そういうバージョンアップっ
てあっていいの。
 しかし、そもそもプロダクトキー登録をしたのにOffice Home 2024
のインストールが始まらなくて焦らされた。聞きたくても、問題が起こ
ったらコミュニティに質問を投稿せよ、という企業姿勢。機械好きの人
達の熱意や優しさが集結しているんだろうけど、私は責任を取れる人に
解決してほしい。
 何かを何度かしたらインストールできるという謎の解決となったが、
マイクロソフトと縁を切れる方法はないかなあ。
 アップルには、是非とも、独自のPages、NumbersをWord、Excel
を凌ぐレベルまで進化させてほしい。
 日本語入力も。
 私はこれまでAtokを使っていたが、年間契約しかなくなったので、や
めた。
 ちょっと不安。
 Googleの日本語入力は、Google関連で使っているのが他にもいろい
ろあるので、警戒して、最後の手段にすることにしたので、Mac標準の
を使い始めたが、文章を正しく変換してくれるというライブ変換は、言
葉の切れ目の判断が下手で変な変換になる。確定のために二度クリック
させられるのは、そういう指への小さな負荷も積み重なれば整形外科の
お世話になる道のようで、なんとかしてほしい。
 前のiMacの方がよかった、と言いたくなるけれど、良くなった点もあ
るから、切なくて、もどかしい。

横入り」ではない

 またまたスーパーマーケットでの話になるが、その日は、客も多いが、
一人一人のカゴの中がいっぱいで、レジ待ちの列が遅々として進まない。
 それでも、あと少しで陳列棚の区域を抜け出し、通路、それからレジ、
というところまで来た時に、私の前の女性がカゴの中を覗き込み、周りを
きょろきょろ。
 私は、
「見ていてあげますよ」
 と言った。
 彼女は買い忘れた物に気づいたのだ。でも、カートを置いて取りにいけ
る距離ではない。列を離れて、また並び直すことになったら、ここまで並
んだ時間が無に帰す。
 彼女は、私の言葉に、
「いいですか」
 と言うも、ためらいが消えない。
「でも、戻ってきた時に間に合わなければ、諦めてください」
 彼女が戻ってきた時、もし彼女の番がきていたら、その時は最後尾に並
び直してくれ、ということである。
 彼女のカゴに冷凍の餃子が二つ三つ入っていたが、それと同じのをもう
一つ持って戻ってきた彼女は私に礼を言い、精算を終えてレジを離れる時
も、もう一度礼を言ってくれた。
 次は駅を出る時である。
 精算機でカードに入金しないと出られない。
 普段この機械を使う人を見かけたことがないのに、その日は女性の二人
連れ、その後ろに男性、その後ろが私、と大混雑。
 女性達は足りない額をきっちり小銭で支払おうとして、もたもた。
 私の前の男性が列を離れ、精算機の後ろ側に回った。もう一台あるかも
と見に行ったのだ。
 ないので戻ってくると、スッと私の横を通り過ぎた。
 入金して改札口に向かう時に振り返って見たら、私の後ろに二、三人並
んでいて、こんな日もあるんだなあ。その最後尾にあの男性がいた。
 彼が列を離れたのはもう一台精算機があるかも、と裏側を見に行く一瞬
だったから、戻ってきた時ニッと笑って恐縮したふりで、
「いいですか」
 とか言ってくれたら、私は喜んで私の前に入れてあげた。
 でも、彼は、列を離れる時、その場所を放棄する覚悟があったのだろう。
まさか後ろの客がそういう融通を利かせてくれるなんて考えもしなかった。
 五月に大阪万博のイタリア館に行った友は、その時でも入館までに二、
三時間待ちだったと言うので、
「途中でトイレに行きたくなったら」
 と聞いたら、誰かと一緒に行っているから場所を取っておいてもらえる
と答えた。
 そうよね。
 行列から一時的に抜ける必要ができた時、自分の後ろの人が了解してく
れれば、戻ってきてそこにまた入っても、誰も文句を言わない。
「横入り」とは違うから。

機械弱者

 交通系ICカードに入金しようと、改札の外から構内の精算機を見やっ
た。
 電車が到着した時ぐらいしか使われないからだ。
 でも、女性が使っているので、外の券売機で入金。
 ところが、改札口を通っても、まだ女性がいるので、近づいた。
 この駅までの乗車賃に不足の金額が画面に表示されている。
 彼女はその金額だけ現金で入金したいらしい。
 ここを押して、次は・・・と説明したら、女性は、無事、改札口を出る
ことができた。
 簡単そうな操作でも、できない人はできないし、「明日は我が身」と
なる日が来ないとは限らないと思うと、機械化、無人化が加速する社会
はつらいなあ、と思った。
 ただ、この精算機は案内所の係員からも見えるので、女性が不審なほ
ど長く立ち尽くしているのは変だと様子を見に来てくれてもよかった。
 一方、女性は係員に助けを求めればよかった。
 でも、精算機の係員呼び出しボタンを押さなかったという事実から、
女性がそのボタンに気づかなかった可能性はある。
 前号で書いたスーパーマーケットでも、やっぱり、レジでの差額入金
の仕方がわからなくて困っても、客は係員の呼び出しボタンを押さなか
った。
 なんでかなあ。
 さて、別の日の閑散とした昼間である。
 私がカードに入金しておこうと駅の券売機に立ち寄ると、長身の係員
が丸っこくて背の低い高齢女性に対応している。女性は日本人のように
も見えるが、係員が手に持った翻訳機で英語と日本語で会話中。
 その会話がまどろっこしくて、私は用が済むと女性に問いかけた。
 どの駅まで行きたいのか。
 女性は電車に乗りたいのではないと言う。
 じゃあ、どこに行きたい。
 家に帰る。
 住所は。
 確か、こういう言葉が入っていて・・・。
 その周辺にある住所だとわかったので、そう言ったら、
「ああ、そうです」
 家にはバスで帰る。
 じゃあ、バス停はあっちです。
 女性はバス停の場所を知りたいわけではないらしい。
 私はもう行かなくてはいけなくなり、あとは係員に任せたが、相手
が何を言いたいのかを聞き出さなくてはならないような時、翻訳機だ
と、操作のたびに会話が中断される。
 それに、女性はここに書いた以上のことを話したけれど、彼女の問
題解決には不要な情報だと判断して私は聞き流した。
 しかし、翻訳機だと、翻訳機を使うぐらいだから相手の言葉はわか
らないはずで、すべての言葉を機械に訳させることになり、到達した
い目的に辿り着くのに時間がかかるだろう。
 翻訳機のさらなる進化に期待。

字幕、吹替え

 中国ドラマの『陳情令』が九月末まで無料配信されると知り、見始め
た。
 前回見たのはコロナ禍の頃だった。
 登場人物は多いが、それぞれ美形、しかし個性ある顔立ちで、混乱し
ない。
 けど、中国の架空の物語なので、人物名や地名が会話の中にさらっと
出てきたら、付いていけない。
 小説を買った。
 ドラマが面白いなら、その元となる小説はもっと面白かろう。
 テレビは早朝の放送で、起きられなくてその回の終わりの方しか見ら
れない日もあり、内容をちゃんと把握したい気持ちもあった。
 コロナ禍は終わったと言われても、まだ、なるべく家にいた方がよさ
そうだし、分厚い四巻セットでも大丈夫。
 幸い、見逃し無料配信があると知り、結果的には全部見た。
 ところが、今回見たら、知らない場面が多い。
 ドラマの後半、話が佳境に入ってから、その回で重要な役目を担う人
間が準主役級の脚光を浴びるのを見て、なんか唐突、と思ったのは、今
回見たら、ドラマの初めの方で肩書の紹介を含めてその人物にスポット
が当たる場面があり、そうか、ちゃんと伏線は張られていたんだ。
 今回は吹替えと字幕の両方が無料放映されるというので、吹替えと字
幕の画面をパソコン上で左右に並べ、主に吹替えの画面を見るけれど、
人の名前など文字で見た方がわかりやすい時は、音を消した字幕の画面
に目をやる。
 ただし、視聴速度は上げない。
 吹替え画面から字幕画面に目を走らせることもあるのに、視聴速度を
上げたら、読みきれなかった字幕を読むため、少し前の場面まで戻すこ
とになる。
 そうなった時、再度開始のクリックを押す時に二つの画面を少なくと
も一秒程度の誤差の範囲で揃える必要があるが、その手間を考えたら、
等倍速で見て巻き戻さなくていいようにした方が時間短縮になる。
 話の筋も今回の方がよくわかったのは、やはり、この見方をしたおか
げかもしれない。
 視聴速度を上げると、短い挿入場面はより短い時間で終わるため、単
なる息継ぎに思えて記憶から排除する。すると、あとでこれが前提とな
る話になった時、記憶にないから、なんか唐突、と感じる。
 そして、字幕の限界だ。
 日本語の吹替えのおかげで、字幕で見ていた時には曖昧だった内容ま
で、しっかり理解できた。
 やはり、言葉の情報量は吹替えの方が勝る。
 それでも、俳優の数ほど声優がいるわけではないので、別のドラマで、
ああ、また、この人の声、と興を削がれることがあるから、基本、字幕
の方がいいと思うのだった。

夜の通勤電車

 夜、電車が来たので乗り、さっと視線を走らせると、以前なら隣り同
士詰め合って六人座ったであろうソファシートに四人座っている。
 微妙な空きスペースは目測できたが割り込むことはないと立っている
ことにしたら、その空きスペースの横に座っている金髪の外国人男性が、
少し体をずらし、私の目を見ながらその空間をポンポンと叩く。
 去年の夏、フランス人の友達が家族で日本に来た時、小学生の二人の
息子が、バスに乗ると一目散に最後尾のソファシートに突進し、互いの
間に一人分の空間をあけ、ポンポン叩きながら、私の名を呼んだ。
 いっとき彼らのお姫様にしてもらったみたいで、微笑みが浮かぶ。
 だが、夜の電車でポンポン叩いたのは見知らぬ外人だ。
 それでも、目を見てポンポン叩かれたら、その好意を拒否することは
できない。
「ありがとう」
 華奢な体型だが風貌からは英語が母国語の人ではなさそう。
 ならば英語で言うのは違うだろう、ここは日本だ、日本語だ、と論理
立てて考える間もなく反射的に日本語が出たことに、私はこっそり自己
満足。
「大丈夫です」
 大丈夫・・・。
 ありがとう。どういたしまして。
 たぶん、これが正統なんだろうけど、実際には「どういたしまして」
なんて言うことはない。でも、これに代わる言い方も定まっていないと
したら、彼が「大丈夫です」と言ってくれたおかげで一応会話が成立し
たし、何より、日本人なら彼がしたような仕方でそこに座るように勧め
てくれることはないから、新鮮な経験になった。
 ただ、彼と同国の女性が向かいのソファシートに座っていて、その隣
が空いたら彼はそちらに移り、空間をゆったり取って座って話し始めた
ので、なぜ、私を座らせてくれた場所に初めから二人で並んで座らなか
ったのだろう、という疑問は、少し考えたが、正解が見つからなかった。
 近頃、夜のその時刻の電車から次の電車に乗り換えるべくダッシュし、
次のホームで電車を待つ場所まで私と行動が同じ男性が二人現れた。
 私が気づいたのがつい最近、というだけかもしれない。
 親近感なんてない。
 一度気がついたら、気になって、嫌。
 向こうもそう思っているだろうし、どうしても嫌なら降りる位置や次
のホームで並ぶ位置を変えればいい。
 そうしないのは、そのルートが一番都合良いからで、彼らにとっても
そうなのだろう。
 もっとはっきりこの事態を回避すべく一台後らすことは、さらにあり
得ず、ゆえに、帰宅がその時刻になる時は、憂鬱。

悪性ではなさそう

 健康診断のレントゲン写真が明らかに前回のと違うということで再検
査から検査入院となり、その結果を聞く日が来た。
 この現実に抵抗したい、と青ざめ、無意味に走り回りたくなるような
焦燥が消えたのは検査入院の当日。願いは願い、現実は現実、と諦めの
境地に至ったからだろう。
 そんな私は、診察室に入る時、すでにカバンとは別に、ファイルとメ
モ用のA四サイズの白紙、ペンを手に持っていた。
 医師がちらっと見る。
 だが、黙って目をパソコンの電子カルテに向け、検査の時の画像を大
写しして、
「どうやら悪性ということではなさそうですね」
 と説明。
 私は、ここはどうなんですか、と気になる所に指を近づけて、問う。
 画像が元の大きさに戻されると、所見が現れ、医師がその部分にマウ
スのカーソルを当てて読み上げてくれるが、私は自分の目で文字を追う。
 小さい文字を読もうと身を乗り出したせいか、靴が先生の靴に接触
て、
「あ、ごめん」
 言うべきは私なのに、先生に謝らせてしまった。
 影の変化が比較しやすいよう、以前の画像データと並べてから印刷し
たのを渡してくれたのは、渡したら、私は確実にファイルに保存すると
見越されたからか。
 このファイルには今回の一連の当初から渡された資料が全て入れてあ
る。覚えているつもりでも、時間の前後関係が曖昧になったりするが、
こうしておけば正しく思い出せる。一見無意味そうな資料もとりあえず
ファイルしてある。
 診察室でこのファイルを繰る必要ができた時にもたもたしないよう、
中指には指サックもはめて,私は、検査結果がどうであれ、この体勢
で医師の言葉を聞くつもりだったので、なんだか、当事者と言うより、
研修医か若手医師がベテラン担当医に画像の見方を教授してもらって
いるような感じにも思えてくる。
 そしてもちろん、画像を印刷したのをもらって、嬉しかった。
 メモして、あとで調べないといけないような専門用語は出なかった
し、これで一連の精密検査は終了ですね。
 と思ったら、もう一度レントゲン写真を撮りましょう、と予約日を
設定される。
 確かに影は大きく後退したが完全に消滅してはいないので、そのせ
いでスパッとキリ良く終わりにならないのか。
 ところで、専門用語だが、医学用語の方がパソコン用語より理解で
きると思うのは、私だけだろうか。
 パソコン用語は、朧げな理解しかできていない単語が説明の一文中
に複数あると、結局何を言っているのかわからなくてお手上げになる。

事実の次

 昨日は八月十五日。テレビも新聞も戦争関連の話題が多かった。
 戦後八十年の終戦日だったからだろう。
 でも、どれもしっかり見る気にならなかったのは、
「ああ、また」
 と思ったからかもしれない。
 過去の映像と写真は、モノクロなので気が滅入る。
 アニメ映画の『火垂るの墓』は、カラーだし、アニメだから見やすい
はずだが、前に見たので、もういい、と思った。
 いわゆる戦争の風化が私の中で始まったのだろうか。
 今語らなければ風化してしまうと、ようやく語り始めた人達。
 これだけの年月が経たないと重い口を開けなかったというところに、
戦争の悲惨さが推しはかれる。
 ただ、個々の体験は違っても、戦争に駆り出された側、残された家族
の現実という点では同じになるから、
「ああ、今年もまた」
 と私は思ってしまったらしい。
 もちろん、日本は絶対に負けると結論が出たのに戦争に突き進んだと
いう事実がテレビで報道された。 
 当時日本の植民地だった台湾と朝鮮半島の人達が日本軍に徴兵された
が、彼らは日本兵より下の存在として差別されていたことも伝えられた。
 だが、何かが足りない、と思う。
 だって、領土を奪われそうになったら、これらの報道を思い出して反
戦を貫けるのか。
 徴兵されたら右に倣えになってしまうのではないか。
 あるいは、敵を倒すオンラインゲームが好きだから、現実世界でも自
分は敵を倒せる自信があるのか。
 そもそも、こういうゲームが人気、というところに人間の本性が現れ
ているのではないか。
 相手を打ち負かしたい。
 相手が気に食わない時も、そうしていいと判断する。
 その衝動は太古から万人に共通ゆえ、戦争のないこの国では暴力やい
じめが目立つようになったのではないか。
 戦争については、その悲惨な現実が一定量知れ渡ったら、次は、じゃ
あ、どうすれば武器で相手を制圧したくなる気持ちをコントロールでき
るのかを語ってほしい。
 少子化は女性の晩婚化が一因、とデータを見せられても、当の女性の
心に響かなければ意味がないのと同じだ。
 働き始めた時から男女の賃金差があるのに、出産でキャリアが途切れ
たあとの女性を待ち受けるのは、さらなる経済的な不平等。
 永遠の愛を誓って結婚しても、離婚するかもしれない。その時、子の
養育費を払ってもらえないかもしれない・・・。
 女性は自分の人生を真剣に考えているだけなのだ。
 幸せになりたい。
 不安なく生きたい。
 その回答をもらえたら、放っておいても、女性は自ら変わる。

できること、できないこと

 検査入院した日、化粧を落とすべく病室の洗面台に向かったタイミン
グで担当医が病室に来て、私は前髪をヘアピンで上げて洗顔する直前の
顔をさらすことになり、最悪の初対面となったが、その夜、検査後の私
を探して談話室まで来てくれた時は、私は名を呼ばれると即座に立ち上
がり、医師を見たまま、手でテーブルの上のリモコンを探してテレビの
電源を落とすという荒技をやってのけたので、これが上書きとなり、初
対面の私の印象は忘れてもらえたと信じた。
 ところが。
 立ち去る医師の背中に私は、
「あ」
 と言った。
 医師が振り返る。
 飲料水として二リットル入りの水のペットボトルを持って来ていたが、
果糖入り飲料五百ミリリットルも一本持っていて、検査のあと、甘いも
のがほしくなって看護婦に聞くと、
「先生に許可をもらってからでないと」
 と言われ、諦めていた。
「あの~。ジュースを飲んでもいいでしょうか」
 そう言う私はその場でぴょんぴょん跳びはね、眼は媚びるような上目
遣い。
「いいですよ」
 医師は言ってくれたが、私は愕然とした。
 なぜに私は小さい子がぴょんぴょん跳びはねるみたいなことをしてし
まったのか。そして医師を上目遣いで見たのは。
 もし医師が駄目とOKのどちらを答えてもいい場合、女の武器で迫っ
てOKと言ってもらおうという魂胆があった。
 ぴょんぴょん跳びはねたのは、そういう下心を込めて今から質問させ
てもらうということに照れくささを感じたからだ。
 幼稚だ。 
 これからは、いついかなる時も取り澄ました大人の振る舞いをしよう。
 だが、そうできたら、私は他者からこう見られたいという私をうまく
演じられていることになるけれど、それは地の私ではないと私自身は知
るがゆえに、うまく行けば行くほど心は苛まれるだろう。
 本当の自分を否定するのだから。
 さて翌朝。
 起きて顔を洗ったら談話室に直行。
 朝食が廊下に着いたので私のトレーを受け取りに行くと、配膳係の人
が手元の資料を見て、八時半にレントゲンを撮りに下りるようにと言う。
「場所はわかりますよね」
 あとで看護婦にも言われたが、一緒に付き添ってくれる口ぶりだった。
でも、私が一人で行くつもりになっていたと知ると、それは撤回された。
 まあ、点滴中以外はベッドにいない私を変に甘やかすことはない。
 それに私の情報が入った腕輪をさせられているので、検査受付で別の
患者と取り違えられることはない。

先読みしても、しなくても

 前号では致命的なミスをした。
「栄養管理士」と書いたのは、正しくは「薬剤師」(訂正済み)。
 栄養管理士は私の献立を考えてくれたが、直接会ったことはない。
 一方、薬剤師は、私のベッドまで来て、私が服用している薬を確認し、
私が注射のアルコール消毒でかぶれることも確認した。
 ところが、このあと、検査に備えて点滴をされることになり、消毒さ
れた箇所がスーッとする感覚が強いので、看護婦に、
「私はアルコールは駄目なんです」
 と告げ、この件が薬剤師から伝わっていなかったことが判明した。
 でも、私はすぐに言ったし、すぐに対処してもらったので、問題はな
い。
 この看護婦は、私が入院のために病室に入った時その部屋にいた。
 だが、同室の患者が痛いとかなんとか言うのにかかりきりだったので、
私はさっさとパジャマに着替えた。
 ようやく彼女が来てくれたが、私を見ると、
「あら~。もう着替えてしまったんですか」
 検査の時に血が付いたりするかもしれないので病院指定の病衣でない
といけない、あとで持ってくる。
 気の利く先読み行動をしたつもりが、ぎゃふん、である。
 まずは血圧を測られたのだと思う。
 でも、あまりの手際の良さに、私は何をされるのかわからないまま、
必要な事をされた。
 ただ、食事の内容は、タッチパネルを見ながら質問されたので、覚え
ている。
 朝はパンかご飯か。
「パンってパサつくでしょう」
「温めたらそうではないと思いますが」
「やっぱりご飯にします」
「牛乳は」
「あ、私は不耐症なんです」
「じゃあ、ヨーグルトにします? 食べるのと飲むのと、どちらにしま
す」
 一つ一つ聞いてくれるのは、ありがたいはずが、面倒だと感じるのは、
入院したというだけで会話するのも億劫な気分になるからか。
 手術室で眼鏡をはずすか、ここではずしていくかと聞かれ、眼鏡なし
では何も見えないと言ったら、
「歩く時、私にこうやってしがみついてください。それか、戻る時は車
椅子だけど、行く時もそうしますか。車椅子は嫌だと言う人がいるんで
すが」
 入院したのに、そういう見栄を張る気持ちは、私にはない。
 車椅子を押してもらい、エレベーターまで来て、寒いのでカーディガ
ンを取りに戻りたいと言ったら、彼女が走って取りに行ってくれた。
 点滴がなければ、自分で行けるのに。
 この時は、先読みしなかったために、看護婦に面倒をかけることにな
った。
 次回こそは。
 あ。次回は、なくていい。

検査入院

 朝、予定より早く目が覚めたら、起きるか、二度寝するか。
 夏は朝の気配に脳が覚醒すると、二度寝しても熟睡できないので、今
朝六時に目が覚めた私はそのまま起きた。
 睡眠時間は五時間。
 すると、まだ午前中なのに、十時過ぎには猛烈な睡魔に襲われ、倒れ
込むようにベッドへ。
 総計で睡眠時間が同じになっても、昼寝した場合は夜まで頭がスッキ
リしないから、早寝早起きに限るが、できない日々の中、検査入院の日
はいきなり夜十時に消灯を強いられる。
 眠れないだろう。
 だが、すぐに寝落ちしたし、夜中に同室の患者が看護婦に連れられト
イレに立ったとわかっても、再び深い眠りの中へ。
 朝六時、カーテンが少し開けられる音に目を開けたら、
「起きていましたか」
 と看護婦。
 みっちり八時間寝て、気分は爽快。
 けれども、入院前夜は気持ちが沈んでいた。
 入院に必要そうな物を想像して詰め始めたのは、夜。
 去年フランスに行く時に買った機内持ち込み用キャリーケースを使う
二度目が入院のためとは。
 旅行の準備をしているような気がしてきた。
 まあ、入院も旅行も家を空けるという意味では同じだ。
 荷造りのあと、ようやく、入院時に提出する用紙に記入。
 書いているうちに自分が入院患者だと自覚させられることになるのが
嫌で、先延ばしにしていた。
 質問項目が多い。
 病気でしんどかったら、無回答で出したくなりそう。
 過去の入院歴・・・。
 いつだったかを調べるのは面倒だと思うのは、やっぱり私の心が入院
に後ろ向きだからだろう。あるいは、心はもうすでに患者になって弱っ
ている。
 パリで入院した時の病名の日本語訳がわからないが、そこまでは調べ
られない、と症状を書くと、その欄にふさわしからぬ文字の列に、なん
か笑える。
 アレルギーを問う欄には「喘息」。
 さて、入院すると、検査に向けて点滴されることになり、腕を消毒さ
れたら、スーッとする感覚がきつい。
 私はアルコールは駄目だ、と告げたら、看護婦が大慌て。
「アレルギーの欄に書いていなかったから」
「でも、さっき言いました」
 薬剤師との会話中、聞かれたので答えたと私は言った。
 しばらくして、廊下から小声の会話が聞こえ、
「それやったら、言ってよォ」
 穏やかながらも訴える言葉が繰り返され、あ、私の件ね。
 注射の時のアルコール不可はアレルギーだと知らず、書かなかった私
のせいもあるから、心の中で、
「ごめんなさい」

一番蝉

 今年は六月末に梅雨明けが発表され、七月五日に虫の音が聞こえた。
 虫の音・・・?
 もう秋なのか。
 蝉はどうなった。
 まだ鳴いていないぞ。
 すると、これに関する記事が目にとまった。
 蝉の幼虫は樹木の根から樹液を吸って成長するが、乾燥した日が続く
と、羽化に必要なエネルギーとなる餌と水を十分得られない。また、土
が雨で軟らかくならないと、地上に出てこられない。
 今年はまとまった雨が降ったのは少しで、すぐに暑い日が始まったか
ら、羽化が促される環境が揃わなかったのではないか、ということらし
い。
 今年は蝉なき夏になるのか。
 ところが。
 今朝、蝉が鳴いた。
 こうでなくっちゃ、夏じゃない。
 いや、来週は雨予報なので、そのあとが彼らにとっての梅雨明けにな
るかも。
 去年はどうだったかなあ、とメモしてあるのを見たら、去年も七月十
二日に一番蝉が鳴いた。
 なぜに同じ日。
 だって、去年の今日は、梅雨明け前で、たまたま雨が降らなかったか
ら、その日に最初の蝉が鳴いた。
 一方、今年は 梅雨はとっくに明けて、連日の猛暑。
 去年とは環境が異なる。
 なのに、去年と同じ日に今年の一番蝉が鳴いた。
 年々温暖化が進んでいても、彼らは、まだ、体内時計に従って生きら
れているのだろうか。
 人智では計り知れぬ命の不思議。
 さあ、今年も変わりなき彼らの夏が来た。
 鳴き声がうるさくなるだろうが、不思議なことに耳は蝉の声は認識し
なくなる。鳴き止んでも気づかない。ただ、夕方や朝、静寂のあとに鳴
き声がすると、その一瞬は、
「あ、蝉」
 と意識にのぼる。
 鳴き声がひときわうるさくなったら、間違いなく、網戸か洗濯物に一
匹とまっている。
 別に嫌ではない。
 どうせなら網戸に止まってくれたら、腹の側から観察できるので、面
白い。
 死んだらみな仰向けになるからそれを見ればいい、というのは違う。
 あの高らかに響く声を出すために激しく震動する腹弁を生で見られる
と、目で納得させられるのだ、彼らの力強い生命力を。
 蝉の命をはかないと思わなくなったのは、成虫になってからの時間は
短くても、地中で幼虫として過ごす期間は数年以上だと知ったからだ。
 知識は、理由なき感傷を排除してくれる。
 おかげで、正しい認識をもとに、彼らの生を正しく畏敬することがで
きる。
 今年は、彼らの命の抜け殻がいくつ、花の鉢の周りに見つかるだろう。
 そう思っていいのは安堵だ。
 夏が来た。

そして再検査

 健康診断のレントゲン写真で異常が見つかると、私は複雑な心境にな
った。
 いつ喘息が完治するかわからなかったので、健康診断は可能な限り遅
い日を予約し、その日に異常が見つけられた。
 ということは、喘息のことは気にせず、さっさと健康診断を受けてい
たら、レントゲン写真で引っかかることはなかったわけだ。
 もっとも、この一週間前、睡眠中に体内に強烈な痛みが生じ、それは
一瞬で上半身の片側に波及して、私は朝まで眠れず、喘息が治る前に新
たな症状に襲われたことに心がめげた。 
 その時は、翌週に健康診断があってよかった、と思ったのだ。
 何科を受診したらいいのか、悩まなくて済む。
 ところが、いざ異常が見つかると、
「見なかったことにしてくれませんか」
 と言った私。
 わずか一週間だが、そのあいだに痛みは随分軽減し、レントゲン写真
に異常ありと言われても、痛みと関係があると思う気持ちは薄まってい
る。
 すると、やっぱり、さっさと健康診断を受けていたら、続くかような
面倒は避けられた、と思いはそこに舞い戻る。
 この日は、診察室を出ても、受付の人が精密検査をしてくれる病院に
電話し、私の検査日と診察日が確定されるまで帰してもらえなかった。
 健康診断で再検査になっても問題ないことは多いし、早期発見となれ
ば早期治療に結びつくので、感謝されこそすれ、私のように、健康診断
を受けなければよかったと思うような人が現れるのは想定外かも。
 検査日は、私の仕事の都合を考慮して、二週間後に決めてくれた。
 なのに、帰り道、それでは遅いのではないかと不安が頭をもたげてく
る。
 体内の痛みが再検査の時までに完全に消滅していたら、それが要・再
検査の原因になったのかどうかを特定できない。たとえ問題なしと結論
されても、心にもやもやは残るだろう。
 最短で可能な日に精密検査の予約を変えてもらった方がいいのではな
いか。
 私の心が揺れ動くせいで、人を振り回す。
 検査日を早めてもらった。
 当日。
 レントゲン写真を撮ると、異常部位はかなり縮小している。
 わずか一週間でこうなら、さらに日を置いて撮ったら、もはや異常と
は診断されないのではないか。つまり、検査日をわざわざ早めてもらっ
たのは愚かだったということだ。
 続く判断ミス。
 だが、CT検査で異常が見つかり、
「検査入院を」
 と言われた。
 そうか、また、私は心と裏腹に従わされるのみなんだ。
 まな板の上の鯉。