列車非常停止ボタン

 きのうは早く帰りたかった。
 十年に一度の寒波に襲われた水曜日もやっぱり早く帰りたかったが、私が
乗り換える列車の本線で人身事故が発生して全線停止になり、そうでなくて
も雪で列車の運行が乱れていて、別の鉄道に乗り換えて、ちゃんと帰れるの
かと雪の深夜にヒヤヒヤさせられたのだ。
 きのうは雪は降らなかったし、列車の遅延もなかったけれど、やっぱり早
く帰りたい。
 乗り換えのホームまで来たので、一分後に入ってくる列車に乗れたら大丈
夫。
 と、視界の隅に妙な動き。
 人が線路に落ちようとしている。
 物は、落ちる時、放物線を描く。人は重たいから、ホームから落ちるとし
てもすぐ近く落ちると思ったからか、その人が線路に覆い被さるように倒れ
込んだので、自発的に加速したのだと思い、状況が読めない。
 列車が来る前だから自殺ではない。
 が、今にも列車が到着する。
 私は近くの鉄柱の周りをぐるっと見た。
 なぜそこに正解があると知っているのか我ながら不思議だったが、普段か
ら見ていないようでも見ているということかもしれない。
 隣の柱に、求めていた赤々と目立つ出っ張り。
 しかし、「列車非常停止」。
 私はその人を助けたいのだ。乗務員に来てほしい。列車を止めたいわけで
はない。ボタンを押せない。
 救いを求めて少し上を見ると、ホームから人が転落した時、というような
説明書きあったので、じゃあ、押していいのね。
 ちょうど、若い女性が二人近寄ってきたので、
「これをしたらいいんですか」
「はい、そうです」
 ボタンを押すとファンファンと大きな音が鳴り始め、ホームの上の信号機
のような赤色も光る。
 乗務員は来ない。
 いたずらで誰かがボタンを押したのかもと防犯カメラで確認しているのか
と思ってしまう。
 いつボタンから指を離していいのかわからなくて、押し続ける私。
 向かいのホームから男性が線路に降りたのは、そちらのホームにも列車は
来ないと確信があるのか。
 ようやく乗務員が駆けつけ、数人がかりで倒れた人をホームに上げ、乗客
の誰かが、
「医者か看護師はいませんか」
 ドラマで聞くような言葉を叫ぶ。
 意識のない乗客の周りに人が集まっていて、私の役目は終わった。
 けど、どうして私より先にボタンを押してくれる人はいなかったのだろう。
 そんな大役、私は引き受けたくなかった。
 幸い、乗務員から声をかけられることもなく、私は闇に紛れる気分で、少
し遅れて入ってきた列車に乗った。

Messenger メッセンジャー

 先週、フランスの友人と電話したら、私を紹介してほしいと頼まれたと言
う。
 彼女は、観光がてら歩く会に時折参加している。誰かがその日に歩くルー
トをインターネットに上げると、参加したい人が集合場所に集まるのだ。彼
女は、その時初めて出会った人と歩きながら世間話をする中、私のことにも
触れたら、それを聞いていたのが今度一人で三週間日本を旅行するという人
だったらしい。
 私は了承し、早速その人からメールが来て、どうせなら電話のほうが話が
早いからWhatsAppで電話しようと言われる。
 ヨーロッパはWhatsAppが主流なのだ。私はスマートフォンを使ってい
ないので対応できない。SkypeかMessengerを提案。
 ただ、私は友人とはMessengerを使っている。Skypeだと彼女の側で私
の声が聞こえないという不具合が発生するからで、そう書いたら、その人も
Messengerを使えるようにしてくれた。
 アカウントは書いていない。
 普段の私ならまず確かめるが、私がそこまで気を回さなくても、間違った
ら間違った時のこと、と危うい大胆さに身を任せたくなった。
 幸い、Messenger上で相手のフルネームで見つかるのは一人だったので、
Bonjour
 と書いて送り、その旨、報告。
「こんにちは」しか書かなかったのは、万一、人違いだった場合の用心であ
る。
 すると、自分のアカウントはこうでアイコンはひなげしの花、と情報がも
たらされる。
 それをもとに再度調べたら該当者は一人なので、安心して、
Bonjour
 すぐにメールで報告。
 ただ、Messengerのもともとの母体であったFacebook上だと、同じア
カウントの人がもう一人いる。しかも、そのアイコンはひなげし花が大きく
一輪。
 もしかしてこれですかと聞いたら、それだという返信。
 私は無関係の相手二人に「こんにちは」とメッセージを送ったんだ。
 三度目の正直で、ようやく正しい相手に、
Bonjour
 ところが、私からのメッセージが見つからないという返信。
 でも、約束した日時に電話はできるだろう、と楽観の言葉。
 続いて、
「私を見つけるためにあなたがしてくれた努力のすべてに感謝です」
 この言葉に深い意味はない。というか、素直にそう思い、そう書いてくれ
た。
 なのに、敢えてそう言われたら、解決してもらってから感謝すれば済む人
は気楽で良いなあと思ってしまう私は捻くれているだろうか。

ネグリジェ

 同じ物が、昔は「お匙」だったが、今は「スプーン」。
 外来語が日本語に取って代わられた一例である。
 ただ、「さじ加減」という言葉の中に「匙」はしっかり生きている。
 日本語同士だと、たとえば「辞書」。昔は「字引」だったが、これも「生
き字引」という言葉の中に過去が生き残っている。
 言葉って面白い。
 そう楽しめるのは、読んだり書いたりするからだ。目で文字を読むので、
文字そのものにも関心が向かう。 
 そして、普段からそんなふうだと、会話の時もその意識が発動する。
 中学生が、その世代なら外来語を使うだろうと思うのに日本語の単語を使
ったので、「おやっ」と思わされた。
 だが、その言葉を書けない。すぐに音が消える会話の中だったせいで、す
ぐに記憶から失せてしまったのだ。
 でも、彼女の語彙力に興味が湧き、私が質問したところからの会話は覚え
ている。
 私は聞いた。
「じゃあ、夜、寝る時に着るのをなんて言う」
「パジャマ」
「そうよね。ほかには」
 私は促すが、彼女はぽかん。
 え、嘘・・・。
「じゃあ、日本語では」
 たぶん答えられないと思ったが、彼女は少し考えて、あっ、と喜びの声を
あげ、
「寝間着」
 正解である。
 寝間着は思い出せるのに、ネグリジェは思い出せないのか。
 温泉に行ったら宿に用意されている浴衣はここでは除外するとしたら、寝
間着は寝る時に着る服なので、外来語で言うなら、パジャマあるいはネグリ
ジェ。形状でこの二つに分類されると私は思っているが、今の時代、ネグリ
ジェはほかの言葉で言い表わすようになっているのだろうか。
「ドレスみたいな」
 と説明したら、中学生男子が手早くスマホで検索し、二人で画像を覗き込
むと、女子が、
「ああ」
 燦めく声で漫画の題名を言った。
 その中で少女達が着ているのを思い出したらしい。
 ネグリジェと呼ばないのなら、なんと呼ぶのかと聞いたら、
「さあ・・・」
 まあ、私も言葉として知っているだけだから、学生ならもっと疎遠で実感
がないのかも。だから、それを表わす言葉を知らなくても気にならないのか
も、と納得したいが、一定数以上の人が意識するようになると物でも抽象で
も名付けて共有化するのが人の常だと思うと、ネグリジェという存在その物
が十代の世界からは消え失せた気もしてくる。
 もしそうなら、物が存在しなくなって、死語になる。その一例を目の当た
りにさせられたことになり、小さい発見、いや愕然だ。

直売市

 年賀状を投函した帰り、駅前に直売市が立っていたので、のぞいた。
 蓮根(れんこん)が、水の入ったビニールの中でちゃぷちゃぷ揺れている
を見るのは初めて。
 横にいた高齢女性に、なぜ蓮根が水に浸かっているのだろう、と話しかけ
られた。
 私は驚かない。驚かないのは、声をかけられることではない。
 普通、見知らぬ人に話しかける時は「すみません」とか言うはずだが、こ
ういう場面ではいきなり会話が本題から始まる。まるで一緒に買いに来た者
同士のお喋りみたいだが、これ以外を経験することがないので慣れたし、私
は好き。
 さて、聞かれて私は頭を捻った。
 女性は、蓮根は水の中で育つから理にかなっていることになるのだろう、
と勝手に納得する。
 相槌を打つ私。
 が、
「すみませーん」
 客対応のためにワゴンの後ろを行ったり来たりしている男性店員を呼んだ。
 やはり水に漬けてあるのは、真空状態で売っているのと同様、鮮度を保つ
ためで、買って使わない分は水に漬けておくといいらしい。
「でも、申し訳ないけど、ここって蓮根の産地なんですか」
 私は不躾な質問をした。
 すると、実は昔から蓮根の名産地なのだと言われる。
 ただ二種類あるうち、こちらは棚田を蓮根畑にして試している農家さんの
で、もっちりした食感。もう片方のが昔からの名産地ので、シャキッとした
食感。
「もっちりとかシャキッとか、わかるのかなあ」
 私が呟いたら、隣の女性が、
「わかりますよ」
 もちっとした方が煮るのに適していると教えてくれる。
 蓮根は節の細くなった部分と中央部でも味が違うと、これは、この女性と
男性店員の意見が合った。
 説明を聞いたこともあり、買うことにして、店員に選んでもらう。説明は
わかったが、選ぶ目を持ち合わせていないと自覚する者の謙虚さである。高
齢女性は自分で選んだ。
 私は、ほかに、手作りコンニャクと干し柿を購入。
 干し柿は天日干し。
 だが、三種類あるので、再び男性店員に訊ねたら、生産者の名前を確認し
てから、この人のは大丈夫、とか太鼓判を押してくれた。一番高いのも、ぼ
ったくり価格ではない。どれも、もとの柿の大きさと出来が正当に値段に反
映されていると理解できた結果、私は真ん中のを選択。
 料理でもなんでも松竹梅と三段階あったら竹が一番よく売れると言われる
けれど、まさしくそんな大衆心理ずばりの行動になったことが悔しい。
 けど、梅は柿が貧相で、松は値段で断念した。

湯浴み(ゆあみ)

 サッカーのワールドカップで「ブラボー」を連呼した長友佑都は、帰国後、
取材陣の一人に水を向けられると、苦笑いして「ブラボー」。
 その場面を見た加藤浩次が言った。
「カツアゲだな」
 初めて聞く言葉でも、話された文脈から正しく意味を理解し、そうやって
語彙が増えていくが、私は、カツアゲは知っているが意味はよくわかってい
なかった。加藤が言うのを聞いても、わからない。
 調べた。
 今日わからなかったのは「湯浴みで入浴」。
 鴇田(トキタ)勝彦という七十七歳がTOKAIホールディングスの社長
の座から引きずり下ろされた。
 度を超える経費の私的流用が暴露されたせいだが、その内容の下品さの中
でも筆頭は、取引先の接待と称して自身の趣味を満足させるべく、社有施設
の露天風呂で女性コンパニオンとの混浴を繰り返したことだ。
 日刊ゲンダイは「男性はタオルで局部を隠し、コンパニオンは湯あみを着
用」
 朝日新聞は「女性は湯あみを着用していた」
 首を傾げた私は半分正しかった。
 半分と言うのは、言葉は時代と共に変わるからで、略語もその一つ。今は
パーソナルコンピュータとパソコンが同じだと知らない人の方が多くなって
いるかもしれない。
 小学校の時、体温を測ってくるという宿題で、私はマルをもらえなかった。
 六度三分とか四分と書いたのは、我が家では体温の三十度は省いて言って
いたから。この略し方はまだ世間の常識にまでは格上げされていなかったの
だ。
 で、湯浴み。
 これは、川や海や湯を用いて身体や髪を洗い清めるという行為であって、
その時に着る服は意味しない。それをその意味でも使えると思ったとしたら、
記者の勇み足。
 ところで、「湯浴み着」と言いたかったのだとわかったら、それってどん
な形。
 画像を調べたら、どこかのメーカーの製品が載っているが、そんなのを着
たまま風呂に入るとは思えない。
 旅番組でタレントが身体にタオルを巻いて入るように、コンパニオンもタ
オルを巻いただけだったが、記事にはそう書いてほしくない圧力が「湯浴み」
という言葉を使えと通達したのかも、と思えてきた。しかも、漢字と平仮名
の組み合わせまで指定。
 従うしかない立場だったとしても、明らかな誤用は、そう主張して訂正し
てこそメディアだろうに。
 記者達は、昔、『我は海の子』を聞いたり歌ったことがないのか。
 なくても、教養や雑学がそれを補ってくれるはずだが。

 生まれて潮(しお)に ゆあみして~。

 歌詞の二番の出だしだ。
 私は思い出した。

小説の未来

 知り合いの高校生女子に英語の質問をされて答えたが、数学のように割り
切れる説明にならなかったので、調べて、次に会った時、曖昧さは残るが仕
方ないと、でも今度は自信を持って説明できた。
 すると、言われた。
「かっけー」
 こういう時に「恰好良い」という言葉で褒められたことがない私は、いい
なあ、と思った。
 いつか、使おう。
 そして、彼女に趣味を聞かれた。
「今度、答えるね」
 というのも、私は単語をぽんぽんと羅列するだけでなく、ちょっとはそこ
から会話にしたいが、それだけの時間はない。
「自分のも教えてよ」
 自分とは、あなた、という意味で使う口語である。
「はい」
 とりあえず、なぜそんなことが知りたいのか、ということだけは聞いた。
 すると、
「興味がある」
 世代が違う相手から興味を持たれたとは、素直に嬉しい。
 私は、趣味と言えば、まず読書を思いつく。
 特に小説。だが、書評で読みたい気持ちを掻き立てられて、図書館で予約
し、その本が手に入っても、最後まで読まずに返すことが増えた。文章に芸
の香りがなく、冗漫で、でも散文とも言われるのだからそれでいいのだと自
分自身に言い聞かせると、その冗漫な文章で綴られる内容が心に響かない。
 書評で内容を想像させられている時が一番わくわくした、という結果にな
るのは寂しい。
 AIに書かせた小説『やめろメロス』『それはやめろよ、人類!』を読ん
吹き出した。
 あまりに荒唐無稽。
 でも、だから笑わされた。
 整合性があるか、辻褄が合っているか。
 論文などではそれは必須の条件だが、作り話は、そういう足枷から自由に
なっても許される。なのに、書き手はその同じ物差しを当てはめようとする
し、読み手も、筋が通っていないと眉を顰める。
 そのせいで面白い話が生まれないのかも、という可能性に気づかせてくれ
たこのAI小説。
 小説と言うには短すぎるので、尾ひれはひれを付ければ論理性もある読み
物として仕立てられる気はする。AI小説には漫画の原作者の役目を担わせ
るのだ。
 現代将棋はAIの影響を受けて激変したという。
 AIソフトは何十億、何百億単位の計算をして評価を出し、指し手を示す。
 ならば、人間は何のために将棋を指すのか。
 AI同士では表われない将棋を人間は指せるのか。
 そんなことを羽生善治は語っているが、確かに、過去のデータの蓄積のみ
が新たな想像を産むのなら、人はいらないことになる。

八時間寝た

 眠たい。あれ、おかしい。
 普段はあり得ぬ八時間も熟睡して、起きたら九時という呆然を経験した今
日。なのに、もう眠たい。
 寒いとよく眠れるから、と言ったら、思いつきの自己弁護になりそうだが、
一理あるかも。寒くなって、夜中にトイレに起きることがなくなったのだ。
 いつだったか、テレビで、医者の誰かが、夜中にトイレに起きるのは尿意
をもよおすからだと思っている人が多いが、実は、目が覚めたから、じゃあ
トイレに行っておこうか、と思って人はトイレに行く、と解説していた。
 その時は話半分で聞き流していたけれど、ノンレム睡眠レム睡眠を考え
たら、理屈がわかりそう。
 人は、寝ると、この二種類の睡眠が交互に起こる。数回繰り返されてから、
朝の目覚めとなる。
 浅い眠りのレム睡眠のあいだに人は夢を見る。夢を思い出せるのは、目覚
める直前のレム睡眠の時に見た夢だからだ。それより前のレム睡眠の時に見
た夢は思い出せない。
 で、夜中のトイレだが、寒くなるとレム睡眠になっても目が覚めないのに、
夏は目が覚めるのなら、これはもう、夏は蒸し暑くて、それが不快で、眠り
が浅くなった時に朝のように本格的に目が覚めてしまうから、と考えるしか
ない。
 少なくとも、私の場合はそれで説明が付きそうだ。
 きのうの金曜日は、朝四時にサッカー・ワールドカップの日本対スペイン
戦が開始するとわかっていたが、そんな時刻に起きたら、昼間の仕事に支障
を来す。だから、起きなかったが、何かこういう気になることがあって寝る
と、寝ていてもうっすら意識してしまうのか。いつもどおり七時間ほど眠っ
て起きたのに、なんか寝たりない、という気分だった。
 でも、その幾分かは通勤の列車の中で眠て解消したし、その夜から今朝ま
では八時間の睡眠。だから、もうあくびが出るのが解せないのだが、先週は
仕事でイレギュラーなことが頻発して神経が疲れ、この程度の睡眠時間では
疲れが取れなかったのかも。
 すると、それでも、とにかく、目覚まし時計の音にも気づかないほど熟睡
して朝寝坊したのが今日だったことに驚かされる。
 週末なら大丈夫、と私自身が意識していない深い意識がそう判断したとし
か思えないからだ。
 自分自身のことなのには、自分の意識が司る以外の領域が結構広いんだな
あ。
 そう思うと、ちょっと変な気分。
 まあ、今、私にわかるのは、肉体的な疲労がまだ残っているってこと。
 早く寝よう。

振替輸送の夜

 夜、いつもどおり電車を降り、同じホームに入ってくる特急電車を待つが、
降りた電車は扉が開いたまま。
 車内アナウンスが聞き取れなかったので、電車に首を突っ込んで聞くと、
たった今、この路線で人身事故が起こったという。
 解せないのは、慌てて外に飛び出す人がいないこと。
 だが、最後尾の車掌と話している男性がいる。
 走って近づいたら、男性が行きたい駅名を言っている。私と同じ。車掌は
二時間ぐらいは動かないだろうと予言する。
 男性が改札口に向かった。
 私はその後ろから、
「一緒に行っていいですか」
 戸惑う男性。
 まあ、そうだろう。
 しかも、改札口の向こうには彼を待っている女性。
 幸い、女性も了解してくれ、私は彼らに付いて最寄り駅に向かった。
 事故がなければ男性は途中下車することはなく、この女性と改札口越しに
会うことはなかったはずだし、振替輸送の駅では女性が男性を見送ったから、
ますます二人の関係は謎。
 でも、二人は、私に駅まで七分ほどだと話しかけてくれたりして、たとえ
恋人同士だったとしても、他人にも寛大になれる安定の季節に到達していた
のは間違いなく、おかげで私は助かった。
 スマホがないから一人ではお手上げだったと私は言い、でも、
「タクシーがあるでしょうけど」
 と最後は金の力でと仄めかしたら、この駅は、深夜、家までタクシーで帰
る人が多く、普段からタクシーがつかまりにくいと言われ、ますます、この
二人に出会えたことが幸運だったと思えてくる。
 駅まで来れば、一人で帰れる。
 だが、私は男性と一緒に電車に乗り、持てる社交性を最大限発揮した。
 私的なことには踏み込まない会話。
 でも、あの電車でどこまで行く予定だったのかと聞かれたら、駅名を答え
る。すると、彼が自分はその沿線に住んでいたと言い、小さい頃、親にあそ
このスイミングスクールに行かされていたと語ると、今度は、私が、私は大
人になってから出勤前にそこに泳ぎに行っていたと告げることになる。ただ、
準備体操もせずいきなり泳ぐことを続けたせいか、自然気胸になったんです。
「え、男性がよくなる病気ですよね」
 彼がそう言えるのは、彼もその病気で二回入院したからだった。
 私も入院したが、彼の話を聞くと私は症状は軽かったのだとわかった。
「なんか共通点が多いですね」
 互いにびっくりし合った不思議な縁。
「おかげで退屈せずに済みました」
 彼は言い、下車していった。

宝くじ

 宝くじは当たらない。
 宝くじの種類によって確率は変わるが、どれでも、一等の当選確率は交通
事故に遭うより低いという計算結果が出ているのだったと思う。
 それに、金持ちYoutuberが実際に百万円分宝くじを買い、当選額が元手の
半分にも満たなかったという現実を見せてくれたら、宝くじに甘い幻想は持
てなくなる。
 でも、百万円という投資額は、宝くじの一等を当てるには足りないのでは
ないか。そんなことを思い始めたら、思考がギャンブル脳になり始めたのだ
ろう。
 先週、何かの拍子に、ロト7がキャリーオーバー中、という情報に触れた。
 普通だったら目に入っても脳が反応しないが、心が動いた。
 当たらないと思っているのに、当たるかも、と思う。
 投入資金のすごさで一等をもぎ取ることができない私に頼れるのは、運。
 運であれば当たるかも、なんて思えてきたのだ。
 それに使うのは三百円。
 私に運の神様が微笑んでくれるかどうかに賭けるのだから、好きな数字と
か、当たりそうな数字を考えたり、これまでの当選数字から推測するなんて
こざかしいことはしない。
 でも、機械任せは味気ないので、売り場で、用紙に印刷された数字を見る
ともなく眺め、ふと目が行った先を七箇所塗った。
 ロトは末等は絶対当たるということはない。
 払戻金ゼロだった。でも、一等は二口出て、キャリーオーバー終了。
 その後、長らく開けていない引き出しの中の、大切な物を入れておく木彫
りの箱の中を見たら、サマージャンボ宝くじが入っていた。未開封
 私は、あるはずの物があると思った所にないと、私という人間はどういう
思考で物の置き場を決めるか、と思い返して、見つけられることが多い。
 その方法で、宝くじを封を切らずに置いておいた理由を考えた。
 当選発表の日まで開封しない方が恬淡(てんたん)とした態度である、と
運の神様に評価してもらえると考えたのだろう。宝くじを買った時点で無欲
とはほど遠いのに。
 調べたら、連番で十枚買えば誰でも当たる末等の三百円だけが当たってい
た。
 でも、もらえない。
 時効を二年以上過ぎている。
 高額当選金が時効間近というニュースを見るたび、あれまあ、と呆れてい
たが、三百円なら時効にしていい、ということはない。
 月日が経つのは意外に早いから、時効までの期間をもう少し長くしてくれ
たらいいなあ。
 今、ロト6とロト7がキャリーオーバー発生中だとか。
 幻の三百円が悔やまれる。
 いや、宝くじは止めな、という天の声か。

ネイルサロン

 先日服を買ったら、店内のネイルサロンで指のマッサージをしてもらえる
という券をくれた。
 急に寒くなり、指先がかさついてきたところだったので、ありがたい。
 ところが、二人のうち一人だけが接客中なので近づいたら、
「これから予約なんです。できれば予約していただければ」
 と言われる。
 予約なんて大げさ、と思い、次に行く機会があった時に立ち寄ったら、や
はり断られ、いつも閑散としていて、これでよく経営が成り立っているなあ
と見えていたのは、私の目が正しく見ていなかっただけ、とわかった。
 電話で予約して行った。
 その時刻の少し前に、かばん売り場の顔馴染みの店員に、これから指のマ
ッサージをしてもらうと話したら、
「女の人は自分の視界に入る指先が綺麗だと気持ちが上がるから」
 と言われ、それって私だけの発想じゃないんだ、とびっくり。
 もっとも、続く言葉は、
「だから、ネイルサロンに行く女の人は多いみたいですよ」
 一方、私の場合は、だから指輪で楽しむ。
 指輪は、その日、自分を守ってくれそうな色を選ぶだけなので、時間を取
られない。それがいい。
 ほかにも、爪のアートを楽しむ以前に、爪そのものに関して私が二の足を
踏む理由があった。
 自分でマニキュアをしていた頃、爪を守るベースコートをしても、
「しゅわっ」
 爪から絶えず何かが揮発するような、爪を縮ませようとする力が、マニキ
ュアを落とすまで消えなくて、マニキュアは合わないと思い、やめた。
 プロにやってもらったらそうならないかもしれないけれど、さらには美容
室で美容師と話をしたいと思わない私、という問題がある。
 じゃあ、なぜ、かばん売り場の店員とは話をするのかというと、最初に彼
女の接客で買ったあと、目が合うと会釈し合うようになり、やがて、彼女が
暇そうなら、ちょっと会話するようになったので、純粋に店員と客という関
係とは違うのだ。 
 お喋りは好き。知らない人と話すのも平気。
 ただ、客の私という優位性で、私のつまらない話に付き合わせることにな
るかも、と思うと、心が屈託する。ならば無言で、となると、それはそれで、
頭がくっつきそうな近さで長時間の無言は、相手に変な緊張を与えそう。
 しかし、案ずるより産むが易し。
 指を三十分ほどマッサージをしてもらうあいだ中、私は喋り続けた。
 この仕事に関する好奇心で、質問が溢れたのだ。
 ネイルサロンは最初で最後かもしれないから。

記憶の依代(よりしろ)

 よりしろ。
 漢字では依り代とか、依代、憑り代、憑代。
 五木寛之の『捨てない生きかた』を読んだ。
 その中で、彼は、モノは記憶を呼び覚ます装置で、ゆえに依代だと書いて
いる。
 モノはない方が空間が広々として快適でしょ、快適なはずでしょ、と言わ
れたら、反論できない。断捨離を始める。
 ところが、今すぐ何かを捨てなければ足の踏み場もなくて生活に困るとい
うことはないので、捨てるモノを見極める目が甘くなる。
 そんな私に活を入れてくれるのは、家の中を断捨離したいがうまくできな
い一家が成功するまでを追うテレビ番組だ。
 見るとはなく見ることで、毎回、活を入れてもらう。
 おかげで、かなり進展した。
 過去にもらった年賀状は、その人からもらったこの年のは捨てるけど、そ
の年のは置いておく、という取捨選択もした。
 あとで見返したいか、その必要はありそうか、が決め手である。
 手紙の断捨離にも着手。
 と、フランス人からの手紙が出てきた。
 彼は当時日本語を勉強していて、フランスから帰国した私宛てに日本の原
稿用紙に縦書きで手紙を書いてきて、私からも日本語で返信し、しばらく文
通が続いた。すっかり忘れていたけれど、彼からの封筒を見て、当時のこと
が蘇ってきた。
 見なけりゃ彼のことは忘却の彼方。
 ならば、彼の手紙は捨てればいいのか。
 悩む。
 手紙を見なければ彼のことを思い出さなかったということは、私の人生に
もう必要ない人ということだから、彼からの手紙は捨てればいい。
 こういう考え方を基準にすると、なんでもかんでもバッサバッサ捨てられ
る。
 けれども、私達が何で作られているかというと、記憶であろう。
 記憶が、私の歴史なのだ。
 普段は過去を振り返る必要はなくても、ふと寂しくなった時などに、モノ
を見、手で触れて、当時の風景や自分自身の物語を思い出せたら、生きる気
力が戻ってきたりするのではないか。
 モノに頼らなくても、脳に記憶は保存されている。
 そうだろうけど、モノを見た方が手っ取り早い。それに確実だ。
 だから、捨てちゃ駄目。
 捨てすぎたら、心が空虚になるよ。
 そう説いてくれた『捨てない生きかた』。
 しかも、モノは依代というのは、個人だけでなく、時代や民族の記憶にも
繋がる考え方で、現物のモノを捨てて映像で記憶が継承できると思ったら大
間違い、という指摘にはハッとさせられた。
 確かに、私は、観光目的なら、その国の歴史を肌で感じられる古い街並み
を歩きたい。

断捨離は難しい

 先日、岡山の産直市が立ち、葡萄を買った。
『紫苑』
 知らない品種だ。
 でも、だから私は買ったんだと思う。
 昔、葡萄は実がもっとずっと小さくて、口に入れたら唇をしっかり閉じて
いないと汁が弾け飛んだ。そんな葡萄が私は好きだったが、品種改良される
と、どんどん実が大きくなり、種なんて、とうの昔に完全に消失。そうなっ
て出回るようになった葡萄を、私はもう積極的に買って食べたいとは思わな
くなった。
『紫苑』は同じように実が大きいが、赤系で、初めて見るがゆえの警戒心は
あるものの、よく知る品種でないがゆえに、やっぱり秋に一度は食べておき
たい、という目的を達成するには良さそうに思えた。
 動機がそうだと、期待は低くなるのであったか。
 食べたら、美味しくて、気持ちよく驚かされた。
 出荷時期が十月下旬から十二月上旬の、初冬の葡萄だとか。
 もちろん、私の舌に郷愁のある、あの小さい濃い紫色の葡萄を凌駕する味
だとは思わないけど、また見たら、買いたい。
 そう思えるということは、私は、必ずしも過去に固執しているということ
ではないんだな。
 ちょっとホッとする。
 この好天を利用して、衣替えした。
 時間はそんなにかからない。
 空気が通る隙間のある収納ボックスの一つ一つに、これは家用、これは外
用、など仲間ごとにまとめてあるので、その中身を箪笥の引き出しに移し、
引き出しの中のを仲間ごとにまとめてボックスに移せば終了。その程度には
断捨離してある。
 ただ、不完全。
 たとえば、ダウン・ベスト。
 着ないから、もう手放さねば、と思いつつ、ぐずぐず持っている。
 暖房を入れるほどではないけれど、朝晩冷えるようになったので、そうだ、
部屋着の上に羽織ってみたらどうだろう、と閃いた。
 しかし、んんっ。そんなに暖かくない。
 ならば、迷いなく捨てられるな。
 捨てる候補に、もう一枚、ダウンの長袖のジャケットがある。
 万一の時用に旅行に携帯できる薄さは魅力だが、袖口が擦れて、繕うこと
ができない。そんなだらしないのは、旅行の時にも持って行かないから、こ
れも捨てよう。
 あ、でも。
 このジャケットの上にベストを羽織ったらどうかしらん。
 やってみたら、あったかい。
 しかも、ジャケットのベージュゴールドと、ベストの水色は、色合わせも
抜群。
 ついに断捨離が決定されたあと、もう一度活躍の場を得た、二着のダウン。
 よかったね。
 私も満足。
 断捨離は難しい。 

アムウェイの友

 前回、パリ在住中にフランス男からかかってきた変な電話についての思い
出を書いた。
 なぜ私はずるずる会話に付き合ったのか。
 罪悪感だったと思う。
 私達は、社会学習の結果、相手が優しく丁寧な口調だと、それに相応する
態度で応じるべきであり、それからはずれる態度はいけないこと、と感じる
ようになっているのではないか。
 そこを詐欺師が悪用する。
 だが、私達も、惚れた相手の気を惹きたい時など、いつもらしからぬ紳士
淑女の態度を取るから、誰かが優しげに近づいてきたら、それだけで相手を
警戒せよ、というのは無理な相談ということになる。
 もっとも、普通は、付き合っているうちに付け焼き刃の態度が剥がれ、地
が出て、それでも続く関係であるなら、続く。
 問題は、そういう人間関係構築以外を目的とする人達からどう我が身を守
るかだ。
 詐欺師は、相手が警戒心を緩めたと思ったら、本当の目的を小出しにする。
相手が拒否反応を見せなければ、さらに一歩突っ込んだ話をまた小出しに。
やがて相手が自らのめり込んでくれたら、目的達成。
 ということは、少しでも変だと思ったら、立ち止まれるかどうか。
 そういうことを相談できる誰かがいるかどうか。
 でも、言うは易く行うは難し。
 実際には、運と言うしかないかも。
 日本アムウェイが違法な勧誘を行なったとして、六ヶ月間の取引一部停止
処分を受けた。
 以前の会社の同僚に、この組織で最上位までのし上がった人がいる。社内
結婚した妻が、先にこの仕事に着手した。
 夫は、これほど完璧なビジネスモデルはないと驚嘆し、私との仕事の打ち
合わせの前後に、熱心にその話をする。
 私は、それほど素晴らしい商品なら会員限定販売なんてセコい売り方をし
なくてもいいのにと、そこが引っかかって、熱くなれない。
 この夫婦が退職してしばらく後、家に招かれた。同業の妻の妹も来ている。
 夕食後、目の前にビーカーが並べられ、
「こんなに濁った溶液が、ほら、コレを入れたら、すぐに綺麗になるでしょ
う」
 得意げな妻。
 三人が一斉に私に微笑みかける。
 私は、同種のほかの製品でも同じことが起こる、と思っている。
 終電が間近で慌ただしく帰ったけれど、もし、まだ残っていたとしたら、
彼らは、私の気のなさを察し、膨大な収入と時間を手にする機会を逃す人、
と私を憐れみ、笑顔で解放してくれただろう。
 ほかにも人はいくらでもいる。
 そんな良き時代だったからかもしれない。
 だって、当時、彼らは堂々と社名を名乗っていた。

ひとごと、ではない

 パリに住んでいた頃、
「この電話番号が当選しました」
 と、まともに取り合えない電話がかかってくることがあった。
 ブチッと切る。
 そうできたのは録音された音声だったからだろうか。
 ある日、見知らぬ男から電話がかかってきたら、私はずるずる会話を続け
てしまった。
 自分はシャンゼリゼ通りに面したアパルトマンに住んでいる、来ないか、
と言われても、受話器を置けない。
 今、日本で、たまに「いらない服」や「いらない靴」はないかと電話がか
かってくるが、そういう時も、
「あー、まったくありません。ありがとう」
 朗らかに言って、相手がさらに何か言う前に切るのが、私にできる精一杯。
無言でブチッはできない。
 さて、パリの見知らぬ男との電話は、切るに切れずにいるうちに、
「あなたのパンティーは何色ですか。赤ですか」
 と相手が言い出し、ようやく私は決然と電話を切ることができた。
 が、相手の電話番号はメモしてある。
 ・・・。
 フランスでは、体調に異変を感じたら、ジェネラリストと言われる一般医
の所に行き、そこで診察して、専門医に繋いでもらう。
 知人に紹介されたジェネラリストの所に行った。
 今後病気になった時のためだ。
 女医にとっての今後のためは、私の病歴を聞き取ることだった。
 約一時間。
 予約してあったとは言え、なんとも贅沢な診察時間となった。
 この問診のさなかに電話が鳴ったのだが、女医が、
「わかったわ。夕方、私が駐車場に車を取りに行けばいいのね」
 と答えたので、私的な電話で、たぶん、相手は夫だろう。
 が、相手がさらに何か言い、すると、彼女は、
「一体、私にどうしてほしいの。今、仕事中なのよ。あとにして」
 声を荒げ、がちゃんと電話を切った。
 この時、私は大いに学んだのである。
 なのに、見知らぬ男からの変な電話で、学びを活かせなかった。
 ただ、こんな私の愚かしさを人に話せるだけの勇気はある。
 知り合いの日本人女性に話したら、
「そんなことでは」
 とパリに住む心得を諭された。
 フランス語がぺらぺらのドイツ人男性は、私がメモしていた電話番号に電
話かけ、私の代わりに相手をやりこめてくれた。
「エミ、いやクミだったか、そういう相手にかけたつもりだったんだが」
 と、しどろもどろに言い訳したそうな。
 こんなことを思い出したのは、ロマンス詐欺や、家系に因縁があると、ま
さしく因縁を付けて勧誘する宗教団体の話が耳に入ってきたからだ。

今日は「十三夜」

 先ほど、カーテンを開け、窓を開けた。
 不思議だ。
 だって、今週火曜日には、
「まだ蒸し暑い」
 と友と言い合っていたが、その後、気温は急降下。昨日はついに最高気温
が二十度を下回り、夜、カーテンを閉めたら、もう翌朝までカーテンも窓も
開けない。
 なのに、私はなぜかは知らねど窓を開けたのだ。
 開ければ、当然、空を見上げる。
 月と、そのすぐそばに輝く星ひとつ。
 あれは何。
 赤くないから火星ではない。
 普段見ている星占いのサイトで、今日のチャートを表示させた。私には、
これが一番手っ取り早いのだ。
 月から一度しか離れていない位置に海王星があるが、この星は望遠鏡が発
明されるまで観測されなかったぐらい暗く、肉眼では見えない。
 次に月に近いのは、二十度離れた木星
 木星は肉眼で見えるほど輝くのか。
 今日の夜空の月とその付近の星をわかりやすく描いてくれているサイトが
あり、月明かりに負けない輝きを放っているのは、やはり木星だとわかった。
 そして、今夜は十三夜のお月見だという解説。
 満月の二日前。だから、ほぼまんまるだったんだ。
 私は『十三夜』と聞けば、樋口一葉
 けど、十三夜って、そもそも何。
 言葉の響きがいいなあと思っているだけだったので、この際、調べてみた。
 十三夜とは旧暦九月十三日の夜のことで、十五夜と呼ばれる仲秋の名月か
ら約一ヶ月後にあたり、「後の月」とも呼ばれ、十五夜を見て十三夜の月を
見ないと「片身月」と言われていたとか。
 ふーん。
 ところが、片身月は縁起が悪いとされる風習がある、と解説が続くと、私
は小さく溜め息をついた。
「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」
 と言われたのは、昔、ロウソクが夜の灯りだった頃は、深爪になったりす
れば死に直結しかねなかったからだろう。
「霊柩車が通る時は親指を隠せ」というのは。
 調べたら、古来より、親指に魂の出入り口があると信じられていたことに
起因するらしい。
 これらの言葉を親から聞いたことはないのに知っているのは、何かで読ん
で知識を得ていたからだ。
 しかし、片身月は知らなかった。
 どうして片身月は縁起が悪いんだろう。
 秋の月見は風情があるから、二回、お月見しましょうよ。
 そう勧めるのに、なんで脅すような言い方をする必要がある。
 怖がらせて従わせる。
 私達は、そんなふうに強制されたい精神構造なのかなあ。
「二夜の月」とも言われていたらしい。
 この言葉には嫌な含みはない。
 今日、私は二夜の月を愛でた。
 偶然である。