寝すぎる

 雨の音がする。
 朝から本降り。
 だが、七時半に目が覚めたのは、雨の音に起こされたからではない。
 私は、大抵、六時から七時のあいだに目が覚める。
 でも、起きても寒いし、そのまま起きたら睡眠時間が足りなくて一日を
棒に振ると思い、トイレから戻ると、二度寝していた。
 今はそのまま起き出す。
 春になったのだ。
 今日は、私に必須の七時間睡眠は確保した。
 だから、一日中、頭脳明晰。
 と思っていたら、起きてしばらくしたら、もう眠い。
 七時間睡眠でも足りないのだろうか。
 週末に八時間、九時間寝ることがあるのは、そのせいか。
 先週は、昼間、抗いようのない睡魔に屈して机に突っ伏し、三十分ほど
寝た。
 なんでこんなに寝るんだ、私。
 だって、時間を無駄にしている。
 そう思うのは、毎日三時間ぐらいの睡眠だと言う人や、仕事をしながら
子育て中とか子供が寝静まってから資格取得の勉強とかで、やっぱり毎日
三時間睡眠、という人の言葉を聞き知るからだ。
 知らなきゃ、比べない。
 知ることの悪い側面である。
 ところで、私は、眠たいと食べる。
 普段は、起きた時に空腹感があっても、紅茶をたっぷり飲むと、それで
胃が落ち着く。それで駄目なら、バナナを食べ、チーズをひと切れ。
 ところが今朝は、さらに白いご飯を食べ、デコボンを丸一つ。しばらく
して、コーヒーを何杯か飲み、小分けのチョコレートを幾つも食べた。
 焼きそばを作り、昼に少し、残りの大半は夕食のメインにと考えていた
のに、昼、ほとんど食べてしまった。
 それでも続く眠気。
 週末には、たががはずれるのか。
 先日、帰ってきたらテレビで占いの番組をやっていて、占い師が芸能人
に、
「あなた、よく寝るでしょう」
 というようなことを言い、言われた本人は当たっているとキャハキャハ
嬌声をあげていた。
 この占い師の本を立ち読みしたことがあるが、よく寝る、なんていう占
い結果が出る分類タイプはなかった。対面の占いとは別物なのかもしれな
い。
 ただ、よく寝る人、と診断される場面を見たことで、そういう人がいる
んだ、私もそうかも、と思えた。
 じゃあ、どうする。
 これからは、朝、外の気配にますます早く目が覚めるだろう。
 帰宅が遅くて、それに比して寝るのが後ろにズレるのを、意志の力でな
んとかできるか。なんとかしよう。
 その初日にすべき今日、夜になってようやく頭がすっきりする予感がし
ている。
 チョコレートを二箱食べきった。

会食クラスターは、なくならない

 行きつけの美容室が、去年の春、自粛要請で二ヶ月間休業したあと、そ
のまま廃業になり、私はヘアサロン難民になった。
 天然のウェーブは美容師のカットの腕を選ぶ。
 もっとも、髪が広がらないよう重力に期待して髪を伸ばしていたので、
カットの技術にそこまで厳しくこだわらなくてもいいかもしれない。
 だが、次に行く店がまたすぐ倒産するようでは困る。
 行きつけだった美容室の隣にも美容室があり、そこは営業を再開してい
る。
 入ろうか。
 逡巡しているうちに、そこも倒産。
 昨日、意を決して、廉価な価格設定の美容室に行ってみた。
 実に一年ぶりである。
 安ければ倒産はないと踏んだのだ。
 が、案内されて座った席のテーブルに、五月末で閉店するという紙。
 この一年間飲食店に行っていない私は、補償付きの時短要請先が偏向し
ている不公平を思ってしまう。
 食は必須。
 でも。
 人々よ。この際、料理に目覚めようよ。
 嫌なら、出来合のものを買って、家で食べよう。
 それでは味気ないという人は、店で個食。一人で黙々と食べるのだから、
飛沫は飛ばない。
 少し前の時代までは、黙って食べるのが普通だった。子供の頃、食事中
に喋ると父親に叱られたと語る友がいる。
 今の小学生達は、教室で黙って食べさせられている。
 この際、食べる時は食べることに集中する、という文化に戻ってもいい
かも。
 酒を飲みつつ食べたい人は、強硬に抵抗するだろうか。
 海上自衛隊トップ十四人が会食し、うち八人が感染。
 厚生労働省老健局の送別会に二十三人が参加し、うち六人が感染。
 都立墨東病院の男女五人が会食後、三人が感染。
 テレビ朝日は、送別会に参加した九人中、四人が感染。
 会食クラスターの情報は途切れがない。
 ここにこそ、人数制限もマスク会食も、守ることができない人の心理が
納得されるのではないか。
 職場の仲間との会食を、正義を貫き欠席したら、上司から目を付けられ、
昇進の際に不利益を被ることになるやもしれぬ。それだったらウイルスに
感染した方がいい。どうせ重症にはならないんだし。
 昇進と感染を天秤にかけたら、人は、普通、こう考える。
 人に範を見せるべき立場の人達が身をもって教えてくれているのだ。
 ウイルスより職場の人間の思考を恐れる。
 それが人間なのに、そこを見ずに理想を押しつけても、無理。
 会食クラスターの発生を暴いて糾弾するだけの愚かしさに、そろそろ気
づきたいものである。

羮に懲りて膾を吹く

 時間があっという間に過ぎる、という感覚になることがある。
 一日、二十四時間に限っても、そのあいだに膨大に時が流れていると実
感させられるのが、この季節だ。
 ほかの所の桜が咲いても、家の前の桜は枯れ木の状態で、もう寿命なの
かと思っていたら、朝、起きたら満開。いつの間にそうなったのだろうと
感動させられる。
 ということは、植物の取り扱いを誤り、たった二十四時間、不適切な環
境に放置しただけでも、悪影響は計り知れないのだろう。一日ぐらいは耐
えてくれても、その状況が続けば、植物へのいじめや拷問になる。
 私のポトス。
 長年ちゃんと育てられていたのに、去年の夏、枯らしてしまった。
 あまりに暑くて昼間もほぼカーテンを閉めきっていたせいか。蛍光灯で
光合成してくれると信じたんだけど。
 秋に花屋で見かけて、蔓がいくつも伸びている吊せる鉢入りのポトスを
買った。
 もっと小さい掌サイズのを買い、鉢に植え替えて、成長したら、私の手
で蔓を好みの形にまとめることを夢見たが、却下したのだ。が、そもそも、
私がポトスにお金を出す日が来るなんて。そこまで気力が失せていた。
 丸い木の椅子の上に置き、毎朝、レースのカーテンも開け、直射日光を
当てる。
 ほどなく、葉にナイフで切ったような亀裂が表われた。
 インターネットで調べたら、善意からとおぼしき、でも説得力を欠く意
見が大多数の中、強い日差しを浴びるとそうなると説明するページに出合
った。
 プロの情報発信だったが、それでも、それが真実だと私自身が直感した
のである。
 人は、自分が正しいと思ったことを正しいと信じるということだ。
 で、このポトス。
 今度は、葉の端が茶色く縮れたのがあちこちに出現した。
 ドラセナも。
 それを見て、私はようやく鉢の置き場所を変え、直射日光に当てないよ
うにした。
 新たに生まれた葉はどれも綺麗。
 強い直射日光がいけないと思ったのに、植物の声なき訴えをさらにしば
らく無視した私。
 過去の経験に学ぶと言うけれど、こうしたらこうなった、という体験が
激しく心の痛みになった場合、次に挑戦する時に適切なところで止められ
ず、それを超えて反対の極みまで行ってしまうこともある、ということだ
ろうか。
 自分で自分を制御できない。
 思い込みや頑迷さは、こういう背景から生まれるのかも。
 ちなみに、時間の無常は人間にも等しく及ぶ。
 冬の怠惰のせいか、今、春のパンツがはけない私。

緑の手

 私のシクラメン春分の日に最後の花が終わったが、相変わらずシクラ
メンのことを考えていたら、夢の中で誰かに、
「しっかり調べてからにしなさい」
 と言われた。
 このシクラメンは、デパートで「贈り物は不可」という但し書きで安く
売られていた。
 でも、「農林水産省苗登録申請予定につき無断増殖販売を禁ず」という
タグもついていて、花びらは白から先端に向かって薄紫へと変わるのが目
新しい。私好みの色合いで、私を待ってくれていたのだと勝手に理解した
のであった。
 以前、スーパーマーケットで、黒いビニールポットでゼラニウムの一品
種、カリエンテの苗が売られていた。廃棄寸前だからか、五十円。
 家でプランターに植え替えたら無事に育ってくれ、挿し木でも増やして、
今は真冬以外は濃いショッキングピンクの花が咲き誇ってくれている。
 ポトスは、職場で伸びきっていた箇所で切り、もらって帰って、増やし
た。
 ドラセナのスノーホワイトは、去年の秋に生け花のセット売りの中に入
っていたのが花瓶の中で次の葉が顔を出したので、植木鉢に植えたら根付
いてくれた。
 私は、枯れそうなのを再生させたり、次の季節に立派に花を咲かせるこ
とに燃える。
 うまくできる人を、フランス語で「緑の手を持つ」と言う。そうなりた
い私。
 シクラメンも、そういう目的があったので、花の盛りが終わったのでよ
かった。
 ただ、萎れかけている花びらを店の人に摘み取ってもらったのは間違い
だった。
 球根の真ん中から小さな花芽が芽吹いても、もやしぐらいの大きさにな
ったら、そこで死ぬ。
 花はあとから次々咲くと思い込んでいた私が、もし、
「それであっていますよね」
 と聞いていたら。
 つくづく質問力は大事だ。
 そんな後悔もあり、次の季節に本当に花をたくさん咲かせられるかなあ
と弱気になっていたからだろう。
 夢の中で、
「まずはちゃんと勉強しろ」
 と誰かに言われたのだ。
 思ったことが夢に反映されることは、あるみたい。
 ところで、植物はひたすら受け身だ。環境を選べない。
 鉢を置く場所がその植物に適切な日照や温度でなくても、少しぐらいな
ら頑張って順応してくれるが、限度を超えたら、ひっそり白旗を揚げる。
 それを見て慌てても、遅い。
 実は、私はポトスを枯らした。
 初めてお金を出して買ったポトスも葉を傷めてしまった。
 生け花から育ったドラセナも。
 やっぱり私が愚かにも思い込んでしまったせいだ。

春の喜び

 春は、いきなり来るらしい。
 緑色の葉のこんもりした茂みに、突然、小さな白いぽつぽつ。
 ユキヤナギだ。
 柳のように流れる枝先に点々と白い花が咲くからだろう、漢字で書くと、
雪柳。
 枯れたような枝先のそれぞれにも新芽がツンツン出て、みな、お日様に
向かっている。
 ガラス窓には、カゲロウのような、透き通った黄緑色の羽をした虫が腹
を見せてとまった。
 花が咲けば、虫も動き出す。虫だけは嫌、と言えないのが辛い。
 ところで、カゲロウという言葉が頭に浮かんで、そう書いたが、私が見
た虫を言うのに、カゲロウを引き合いに出して合っていたのか。
 不安になり、調べたら、あの虫は、たぶん、カオマラクサカゲロウだ
とわかった。
 私の記憶は間違っていなかったのだ。
 ふと頭に閃いたものの、自分でもなぜその単語が出てきたのか不思議で、
ところがそれが大正解って、記憶はどういう仕組みになっているのだろう。
 さて、花も虫も春を告げるが、食べ物も然り。
 近隣の県からの産直コーナーに、つくしのパック詰めが並んだ。
 つくし!
 小さい時、土手でつくしを摘んで、母が料理してくれたなあ。
 それが売り物になる時代なんだ。
 つくしの横にはナバナ。
 黄緑色の柔らかそうな葉っぱの中に、菜の花でお馴染みの蕾が潜んでい
る。
 浅い黄緑色は、春の訪れ。
 懐かしさと春の息吹に、買いたくなる。
 でも、目で楽しんだから、それでいいか。
 いや、食べてみたい。
 料理の仕方がわからない。
 インターネットで検索できる。
 では、次の機会に。
 その時には、もうないかも。
 などと心の中で問答して、つくしとナバナを買った。
 つくしの袴を取ると手が黒ずむから手袋をせよという親切な忠告は無視。
数本だと黒ずまないので、大げさだと思ったが、要は数の問題だとわかっ
た。何十本もの袴を取っているうちに、指や爪はちゃんと黒ずんだ。
 それにしても、あく抜きや下準備に手間がかかる。やっぱり見るだけに
すればよかったか。
 でも、翌日行ったら、どちらも店頭になくて、あの時、買って、よかっ
た。
 スーパーマーケットには、こごみや、たらの芽。
 流通に乗るだけは採れるということなんだろう。それでも今だけの旬。
 この瞬間を逃すな。
 お花見も同じだな。
 短い期間で旬が終わる物が多い春は、悠長に構えていたら時を逸する。
 だが、冬のシクラメンは、今朝、最後の花が咲き終わった。
 今日は春分だ。 

スピーカー通話

 たまに電話してくる叔母とは、話し始めたら一時間以上。
 叔母は炬燵の上に置いたスマホのスピーカー機能を使って話すので、口
が疲れるまでは平気みたい。
 私も平気。が、私はその間ずっと二つ折りの携帯電話を耳に当てている。
 いわゆるガラケーで、電話の受話器のように持ちやすいからではなく、
スピーカー機能は付いていないと思い込んでいたのだ。
 新しい携帯電話に換えてからも、そう。
 ところが先日、受信ボタンを押してから耳に当てるまでの数秒のあいだ
に「スピーカーON」という表示が目に入った。
 え、ガラケーも手放し通話できるの。
 一つ前の3G回線のガラケーにそういう表示は出なかった。
 いや、そっちの方が辞書機能などが充実して優秀だったから、本当にそ
うかとその機種の名誉のために調べてみたら、アプリというボタンを押す
仕組みだったと、今、マニュアルを読んで初めて知った。
 さて、スピーカーにして喋れるとわかった私はどうしたか。
 その後も数回、耳に当てて話した。
 相手の声はちゃんと聞こえる。でも、私の声が相手ちゃんと聞こえなか
ったら相手に失礼。
 でも、手ぶらで話せたら、話ながらパソコンを打つのが楽なので、試し
たら、叔母はいつもどおり話し続け、ようやくスピーカーで話しても私の
声ははっきり伝わるんだと納得した。
 固定電話もそうだ。
 スピーカー表示が目立っていたので、当初から利用していた。ただし、
電話番号を入力して呼び出し音が聞こえているあいだだけ。相手が応答し
たら受話器を耳に当てて話す。
 やっぱりマイクが私の声をどの程度拾ってくれるのかがわからなくて、
不安だったのだ。
 麗しき相手への配慮だなあ。
 だが、スピーカーにして話し、相手に聞こえ具合を確かめれば、すぐに
判断は付けられた。
 それをせず、なぜ、私は受話器に口を近づけて話さないと駄目だと思い
込んだのか。
 今となっては謎。
 思い込んでしまった、ということだけはわかる。
 私はそんなに思い込みの強い人間だったのか。
 パソコン上でこういうことがしたいと思った時、インターネット上でこ
ういう情報を探したいと思った時、私は自力でほしい答えに辿り着く。こ
れが駄目ならあれ、という柔軟な発想があるおかげだと密かに自負してい
たが、その能力とは関係なかったのか。
 こうにちがいないと思ってしまったら、そこで思考が止まるのだから。
 この手の思い込みを次々発見している今日この頃だ。

壊れないと、買い替えられない

 先月の話になるが、節分の日。
 仕事帰りにスーパーマーケットで巻き寿司を買おうと思ったら、まだ九
時なのに、ない。一本も。
 かくて巻き寿司を目撃しない節分となった。
 食品ロス問題や新型コロナウイルスで、売れ残りを出さない本気度が発
揮されたんだろうな。
 商売は対応が迅速。
 健康診断では、心電図測定で手首足首に電極を装置された時に、その感
触がなんか違う。測定はほぼ一瞬で終わったし。
「器械は進化しますから」
 と看護婦さん。
 そうか。投資の価値ありと判断して、新しいのが導入されたんだ。
 思い切りの良さは重要だ。
 でも、日常生活は個人的な好み、つまり感情が動機となるから、古いま
ま刷新されないことも多いのではないか。私は、そう。
 去年、十六年目で冷蔵庫が壊れた時、まだ動いてほしいと思ったのは、
物はなるべく長く使いたい派だから。
 が、電気代が大幅に減った。調子が悪くなってからの半年ほどは必要以
上に電気代がかかっていたかもと思うと困惑である。
 新しい冷蔵庫ほど電気代が安くなるので、冷蔵庫を月賦で購入したら、
その月々の支払い額が、これまで高く払っていた電気代と相殺できる、と
いう理屈で冷蔵庫の買い換えを語る過去の新聞記事の切り抜きが、今頃出
てきて、ああ、本当じゃん。
 先日はシャーペンだ。
 女性は手が小さいので、シャーペンの消しゴム部分までの長さが短い方
が芯を押す時ラク
 私は主に外出先で使うから、細い胴体が、軽くていい。
 この視点で選んだシャーペンは、もう十年以上になるが、今も健在。
一つは家、一つは外出用で二本。色も同じなのは、その色しか作られてい
なかったのだろう。
 滅多に使わない。が、その滅多に使わない時に芯がポキポキ折れる。
 でも、壊れないから買い換えられない。良いと思って選んだんだし。
 とは言え、ここぞという時折れられるとイラッとするので、二年前、芯
が折れないという触れ込みの現代版のシャーペンを買った。外出用のみで
いいので、一本。
 その頭の部分が弾け飛んだ。
 え、もう寿命。
 折れないはずの芯は結構折れたし、やっぱり古い方が作りが堅牢なのか
と懐古主義に戻りかけるが、使うとポキッ。いらっ。
 そのストレスが嫌で、もう一度、文房具の進化に賭けることにした。
 まずは中学生に意見を聞こう。
 ケースの底の磁石に消しクズが付く鉄粉入りの消しゴムなど、最前線を
知っている。
「これがいいです。友達もみんな、これです」

記憶の倉庫

 記憶の善し悪しは何で判断されるのだろう。
 そう思ったのは、この一ヶ月のあいだに起こった印象的な事も、刺激が
なければ、思い出せないことに気づいたからだ。
 刺激とは、私の場合は日記。パソコンに書いている。
 その時刻にどこへ行ったのかを列記するだけの行動メモだが、その時強
く思ったことを書いてこそ、日記。だが、長文になりそうなので、あとで
書こうと黒丸をつけておく。ところが、結局、書かなくて、その印を見て
も何を書きたかったのかが思い出せない。
 そのひと言で記憶が蘇るような単語と、その時の気持ちをひと言。それ
でいいと思うが、実行できない。どういう頑固さなんだろう。
 先日。
 病院の受付カウンターに立つ高齢男性の足もとに帽子が落ちている。彼
の足の動かし方次第では踏んづけそう。
 だが、そこから離れる時に気づくだろうと期待しつつ息を潜めて見てい
たのが私を含めて最低三人いたのは、彼がそのまま立ち去りかけるや否や、
三人が一斉に、
「帽子!」
 と叫んだことからわかった。
 彼は礼を言い、
「歳を取ったらあきませんわ・・・」
 と頭を下げた。
 私がソファにリュックを置いて立っていると、そのすぐ後ろの通路で、
その彼を女性職員が背中から抱えるようにして、彼が行くべき診療科まで
連れて行こうとしつつ、彼に話しかける。
「今日は一人で来はったんですか」
 彼が言った。
「帽子がない」
 病院の用紙と一緒に彼が握っているのが私の位置から見えたので、そう
伝え、被っておけばいいのではないかと提案したら、
「帽子は、中に入ったら脱がなあかん」
 礼儀を重んじる姿勢は美しい。
 しかし、そのせいで自分自身にいろいろ面倒が起きるようになったら、
「もうできなくなりました。ごめんなさい」
と諦められたら楽だろうになあ。
 そうできないところに、その人の正義と自由がある。
 そんなことを思わされた出来事だったが、病院のカウンターで私が思い
出すべきは、傘を引っかけていたら、離れる時、カウンターの下の部分に
引っかかった露先(つゆさき)が安いビニール傘みたいにたわんでくれず、
ポキンと折れたことだ。傘が壊れたのに、日記に書いたのが目に入って、
ようやく思い出せた。
 Macのマウスが壊れ、買い物用のカートの金属が取れ、ほかにもいろい
ろ壊れたこの二月。
 だが、それらはもう記憶の倉庫の奥深く。
 一体どういう記憶なら、倉庫を抜け出て我が物顔で私の脳裏を闊歩する
のだろう。

もっと創造力

 キンコン西野の本と映画のヒットは周到に計画されていた。
 制作に携わった人達は作品に強い思い入れを持つから、自分が代金を払
ってでもより多くの人に見てほしいと願う。その心理をうまく活用する仕
組みを西野は作ったし、無料で何百冊と配布するし、告知して頻繁に映画
館に現われ、観客動員に貢献。
 のちのち取り沙汰されるのは数字だけ、と見抜いているのだ。
 森喜朗が五輪・パラリンピック組織委員会の仕事は無報酬で引き受けて
いると言ったあと、納入業者からの年間何千万円もの献金や、怪しい財団
との利権問題が暴かれても、彼の実績に付記されないのと同じだ。
 西野にその手の悪はない。
 彼の戦略を使えば、どんな本や映画もヒットさせれられるのか。
 ただ、作者は、西野のように強烈に人を惹きつける人物であることが大
前提。
 ん。
 作品よりもそれが重要ってこと。
 芸人のほんこんが、えんとつ町の住人は煙の中の暮らしに不平不満はな
かったよな、と映画を見て、根本的な指摘をした。
 周りのみんなに馬鹿にされても夢を諦めるな。
 ポルトガルに拒否され、ようやくスペインの後ろ盾を得てアメリカ大陸
を発見したコロンブスを始め、夢を実現した人達は多い。
 えんとつ町の主人公は、父親の言葉を信じて、煙の外の世界を見たいと
思った。コロンブスの側の人間だ。
 現状への不満や、まだ見ぬどこかへの憧れは、個人的。
 民族的な理由で不当に軟禁されたり虐殺されるなど、仲間みんなが苦難
の中、勇気に運が味方して脱出できたヒーローとは系譜が異なる。
 けど、えんとつ町には煙がもくもく。
 住人達は仕方なく悪辣な環境を耐えているのだ、と私達は私達の常識を
勝手に当てはめてしまう。
 そんな風には描かれていないのに。
 だから混乱。
 ほんこんの指摘は鋭い。
 先日、テレビで『天気の子』が放映されたので観たが、終盤、私は大き
く興を削がれた。
 高い階のアパートに引っ越すしかないほど町が雨で水没したら、電気系
統がやられて都市生活は崩壊するはず。でも、人々は、長雨が続いて困る
なあ、ぐらいの感覚で普通に生活。
 その時点まで限りなく現実世界に忠実な描写だったのに、いきなり筋書
き優先の非現実に。
 そういう安直さに逃げず格闘する時、創造力は、批判的な人々をも唸ら
せ、ひいては子供達の精神を強く揺さぶるだろう。
 是枝監督は、樹木希林の意見を取り入れ、彼女の出番の『万引き家族
のシーンを変えた。

ただほど高いものはない

 キンコン西野ツイッターを読んだ時、
「連日走り回ってくだっている吉本興業外部のスタッフさんに対しての吉
本興業の対応がナメ腐っていたので、会社ごとガン詰めしました。しっか
りしろ!」
 の「吉本興業外部」にモヤッとした。
 彼は、絵本制作は分担制だとか、
「世の中には自腹でもプロジェクトに参加したい人がいる」
 ので、そういう人にも参加してもらうことがある、などと語っている。
 私は、彼の音声配信とブログを読んでいたことがあり、彼は何でも話す
人、と思っていた。
 でも、外部って、代表取締役から取締役になっても彼の会社の株式会社
NISHINOのことなのよね。
 ならば、その小さい会社のスタッフが滅私で働いても当たり前。
 そこを指摘されたくなくてぼかしたのだとしたら、計算尽く。それに、
普段の彼の饒舌から誠実な人と思っていたら、この言葉に首を傾げても、
読み流す人は多いだろう。
 ところで、彼のスタッフは、正当な対価を支払われているのかなあ。
 彼は日頃から、
「お金には興味がない」
 と公言。
 生活費は若い頃とほとんど変わらない。残りは全部、次の大きなプロジ
ェクトに注ぎ込む。
 すごいね。
 でも、上がこう発言すると、下は自分も生活費に困らなければいいのだ
と勝手に思い込まされそう。
 しかも西野は独身。二十四時間、仕事に当てられる。
 とは言え、彼に集まる者達は「やり甲斐」の高揚感があれば、金と時間
を捧げられるのかも。
 が、普通の人はそうはいかない。
「捕まっていないだけの詐欺師」
 と言った千鳥の大悟の方が共感できそう。
 退所後すぐ、『毎週キングコング』で、その動画は吉本の提供なので、
相方の梶原が、西野は今後はゲスト扱いになるのかなあ、と問題提起した。
吉本の寄席然り。 
 すると、西野は言った。
「本音はギャラはいらない」
 梶原と一緒に漫才できるのが楽しいから、それでいい。
 これには先輩芸人達が反撥。そりゃそうだ。
 アメリカの推理小説で、報酬は安くていいと主人公が言ったら、
「そんなことを言う奴は警戒されるぜ」
 と警告された。
 そういうことだ。
 身内同士に悲惨な殺し合いを強要した事件は、頼ってきた被害者に、当
初、気前よく振る舞った加害者が一転、恩の回収に乗り出して、極悪非道
な事件に発展したのではなかったか。
 それはさておき、もう一つの疑問。
 西野のビジネスモデルを使えば、どんな本や映画もヒットさせられるの
かなあ。

上に立つ者

フランスで友人宅に滞在中のある晩、友に、
「今から夫と小学校の親の集まりに行くから二人の子守をお願いね」
 と頼まれた。
 夕食後だった。
 両親の参加が当然ゆえ、そういう開始時間になる。
 パリで襲撃事件があった時、近隣の学校に子供を迎えに来た中に父親の
姿が多くあることをテレビは映し出していた。
 翻って日本は、とは思わない。
 もとは同じ昆虫だったが、生き延びるために選ぶ環境が異なった結果、
大きく生態が変わった、というような事例を見れば、日本は今のような社
会を目指した祖先の末裔だとわかる。
 でも、新たな方向に舵を切ってもいい。
 YouTuberのヒカルは、動画にもよく登場するスタッフに、
「彼を使って俺は稼いだし、これからも彼をお金に換えていく」
 という発想で、その彼にぽんと一千万円渡した。
 新たに加わったパートタイムの出演スタッフへは、高級マンションの家
賃負担を会社の福利厚生として引き受けた。
 カジサックが、
「スタッフの生活が向上していくのが嬉しい」
 と公言できるのは、スタッフが次々に良いマンションに引っ越しし、高
級な車を買ったのを見れば、わかる。
 ヒカルやカジサックは、動画に出ない編集スタッフへの給料も、たぶん、
充分に還元しているのだろう、と想像させてもらえる。
 ラファエル然り。
 それどころか、彼は、動画の仕事を会社員と同じ勤務時間で終わらせた
い人らしい。
 素敵。
 自分の会社の人間ではないので給料として上乗せできないオリラジの藤
森慎吾は、吉本興業を退所した時、それまで彼の動画に何度か出演してく
れた吉本所属の女子マネージャーにカルティエの腕時計を贈った。
 どの分野でも、第一人者になるのは、才能ある人。
 でも、そういう者ばかりではこの世は回らない。
 そうわかっている人は、自分の才能を鼻にかけず、部下を正当に扱う。
 そうできない人は、
「俺の夢、俺のプロジェクトに加われるだけでありがたいだろ」
 という態度で、「やり甲斐搾取」という意味不明の手段に出る。
 改めてそう気づかせてくれたのは、吉本興業に「会社ごとガン詰め」し
たら三日で契約終了されたキングコング西野亮廣だ。
 今も、彼に関する記事が出る。
 でも、退所の引き金になった彼のツイッターの不思議な言い回しを解読
してくれた記事はあっただろうか。
 私は、その言葉に引っかかり、そこからいろいろ考えさせられることに
なったのだった。

ロザンの二人

 ロザンの管と宇治原のYouTube番組『ロザンの楽屋』は、登録者数
も、毎回の再生回数も、堅実な数字に留まっている。
 面白くないからではなく、面白さを追求している方向が違うからだ。
 対象者が限られる。
 二人が画面の左右に目一杯離れているのは、新型コロナ対策のため。
 その状況で、一つのテーマについて語り合う。
 面白いのは、どちらが口火を切っても、すぐに、
「うん」
 相手が応じること。
 管は、特にこの相槌が早い。
 宇治原が、
「あのね」
 と言っただけで、
「うん」
 と言ったりする。
 ここに、二人の厚い信頼関係が透けて見えるのだった。
 今から相手が語ることは、聞く前から聞くに値すると思っているからこ
そ、だから。
 知的に同じ土俵にある者同士という安心感。
 実際、まさしく、この二人だからこその話の展開になる。
 可愛い男の子っぽい外見の管は、実は批判精神旺盛で皮肉も手加減なし。
気安く近づいたら手をかまれそうで、イメージとは大きく違う。大人だ。
 一方、管の言葉を丁寧に拾い上げるのが宇治原。彼は知能をひけらかし
て闘うタイプではない。これも意外。
 二人の話題は、面白い、と思う人と、また面倒く臭いことを言い出して、
という人の二つに分かれるだろう。
 なんにせよ、宇治原は受ける。
 受けたとて、そこからどう発展できるのか、宇治原自身わかっていない
かもしれない。
 でも、ちゃんと受ける、という姿勢でいると、自身の知力と情報量がそ
れに派生することを思い付かせてくれるのだろう、それを語ると、思わぬ
視点が立ち現われる。
 議論する醍醐味だ。
「あ、そうか」
 管は、納得させられたら、あっさり意見を取り下げる。その柔軟性もま
た、頭の良い人である。
 彼らの会話は、謂わば粘着質。
 わずか十分ぐらいでも中身が濃い。
 直感や好き嫌いで相手の意見を切り捨てない。
 良き議論の在り方を見せてくれる。
 そんな番組はテレビでもないので奇特だと思うが、二人が、学生時代に
出会うまでは言葉が通じる相手がいなかった、と語っていたのは、そうな
んだろうな、と思わされる。
 こういう関係の恋人や夫婦は、精神的に豊かだろう。
 実際どうかは、彼ら自身の結婚生活について聞いてみたいけど。
 今日は、コロナ渦のメディアへの批判として、店で一人で食べている人
にわざわざ近寄って取材するのはいいのか、と管が話題にしたことに軽く
触れるだけのつもりが、文字数を使い果たした。

緑の財布

 昔、友達が綺麗なエメラルドグリーンの財布をくれた。
 二つ折りで、花びらのアップリケが二つ。
 好きだった。
 今回、風水占いが勧める緑を好きじゃないと思ったのは、黒と同列の緑
なら、暗がりで黒みたいに見える濃い色のはずだから。
 そういう緑も黒の財布も、バッグの内側が黒っぽいと、バッグを開けた
時、一瞬、戸惑う。それで好きじゃないのだ。
 でも、緑は去年の流行色なので、緑を買うなら絶好のチャンスかも。
 ちょうど、使っているピンクの長財布にペンか何かの線が付いて、気に
なるので、買い換えることにした。
 そのピンクの後継は濃い緑だった。
 同じ色だが、革はつるんとしたのと押し型のコンビで、蓋の内側のカー
ド入れが一段少なく、本体側のは二段目と三段目が革ではない別の品番も
ある。
 ブランドのサイトで不明瞭だった違いを電話で問い合わせた時、それは
四十パーセント引きになったと教えてくれた。
 在庫は三つ。
 私が行けるのは早くて三日後。
 売り切れていたらピンクの後継を買おう。ピンクの前は、同じ仕様の黒
を持っていたから、三代目になる。それでもいい。
 けど、私が買いに行く日、私が着く直前に来た客で売り切れたりしたら
諦めがつかないから、朝一の到着を目指した。
 が、デパートに着いたら十一時過ぎ。
 売り場にセールの表示がない。
 目当ての長財布もない。
 品番を告げたら、下の扉の中から出してきてくれた。
 セール品を隠しておくって、なぜ。
 解せないが、私がそれを買うことになったら、客の手垢にまみれていな
いから、嬉しい。
「どう思います」
 私はこの言葉を、電話に応対してくれた店員にも言った。
 その彼女も、目の前の彼女も、セール価格の方を勧めた。
「なぜ」
「値段が下がったのは製造が終了したからで、そういう意味で、こちらの
方が希少価値が出ますし」
 おお。そう考えることもできるのか。
「じゃあ、これにします」
 実は、その朝、ピンポイントでそれを指定して買いに来た客が二人いて、
その中に私はいたのかと、店員同士の話題にのぼっていたらしい。
 私の電話に応対してくれた店員は休みだが、話は伝わっていたのだ。
「それは私です」
 じゃあ、私のために取り置いてくれたのかな。
 いい気なことを思った。
 でも、そうか。
 風水占いを信じて緑を求める人は、何千、何万人かに一人ぐらいはいて
も当然か。
 安けりゃ、なお良い。
 最後の一つが買えてよかった。

縁起を担ぐ

 普通、良き日と言ったら、六曜の「大安」。
 明治時代に国が迷信だとしてどんな吉凶もカレンダーへの掲載を禁じた
が、民衆の反撥に遭い、一つだけ許したのが六曜で、結果的に、信じるに
足るのは六曜だと認識されるようになったらしい。
 そうとわかっていても、どの日でも選べるなら、慶事は大安に、となる
のは人の情。
 しかし今、大安を上回る良き日が喧伝されている。
 天が万物の罪を許してくれる「天赦日」。
 一粒の籾(もみ)が万倍にも実る「一粒万倍日」。
 今日は、おまけに六十日に一度巡ってくる「甲子の日」が重なる。
 物事をスタートするのに良き日が三つも同じ日に重なって、最強らしい。
 星占いの視点からだと、惑星がすべて順行して、今日はやっぱり物事が
順調に進む日になる。
 この日を待って、新しい財布をおろした。
 半月前に買ってから新札を入れて暗い所で寝かせていたのは、そうする
と金運が上がると聞いたから。
 それを言うなら、色は緑。
 金持ちの財布は緑か黒が多い。
 なりたい人の真似をしたらそうなれるというのが占いになるのか怪しい
ものだが、その情報に従い、初めての緑。黒は以前持っていた。
 ただ、私は緑は好きではない。
 藁をもつかむ気持ちになったのか、私。
 昨日までピンクの長財布を使っていた。小銭入れは別なのに、財布が重
たい。
 お札は万一用で限りなく少なく、カード、そしてチャックで開閉する場
所には、神社で小さな縁起物付きのおみくじがあると引いて手に入れた縁
起物の全部と、お守り。
 革そのものが重いのだろう。
 使ってまだ二年ほどなので買い換えたくなかったが、淡いピンクは汚れ
が付くと目立つ。
 今度は二つ折りにしようかなあ。
 買ったバッグが小さくて、長財布が入らないのだ。
 山登りのリュックのベルト部分に入れるために買った三つ折り財布があ
るが、お札が三つに折れる。
 でも、二つ折りだと、お札は二つに折れる。
 なんにせよ、色は緑。
 まんまと占いの術策にはまったなあ。
 気に入ったのが見つからず、インターネットで私のピンクの後継を見た
ら、緑と黒。微妙なデザイン違いの緑もある。
 そうか。重さ以外は大満足の、そのブランドのを買えと言うことなんだ
な。
 デパートに電話したら、デザイン違いの方が冬のセールで四十パーセン
ト引きになったと言われる。在庫は三つあるとか。
 まさに運命。
 でも、手に取って見比べたい。
 行けたのは三日後だった。

「謝る」真意

 その叔母は、割と頻繁に私に電話してくる。
 が、まずはメールで、
「今、電話してもいい」
 と打診。
 その際必ず、
「ごめんね」
 のひと言が付いてくる。
「謝るぐらいだったら、電話、やめようか」
 開口一番、私が言う。
 叔母はひるんで、
「私、偽善者かなあ」
 いや、覚悟がないだけだろう。
 私の時間を奪うのは申し訳ないと思っても、話し相手になってほしい気
持ちが上回ったのなら、素直にそういう自分であると打ち出し、それで万
一私から疎まれたら、その時初めて恐縮すればいいのであって、最初に、
「ごめんね」と牽制されたら、私が困る。
 というのは、叔母の長電話に付き合うことになるんだと思うと、本当は
今じゃない時の方がありがたいんだけど、とちらっと思ったことが蘇るか
らだ。
 それでも、
「いいよ」
 と答えた私。
 その「いいよ」はどれぐらい真実だったのだろう。
 私自身の誠実さが不安になってきて、要は、私の中で解決していたこと
を再度意識させられ、非常に面倒臭いのだ。
 こんな叔母だが、
「テレビがちっとも良いのをやってないから」
 でも、一時間後に見たいテレビが始まるので、
「今日はそれまでのあいだね」
 と言ったりするので、あの「ごめんね」は自分の都合を謙虚そうに押し
通すための常套句なんだ、と苦笑いできるのだった。
「すみません」は、自分が悪いと認めて、発する言葉。
 ところが、個人的に英語を教えている学生達も、よく言う。
 習ったばかりのことは間違えて当然。
 なのに、私が間違いを指摘すると、反射的に、
「すいません」
 とりあえず謝っておけばいいという安易な処世術でいなされた気がして、
不愉快。
 しかし、そういう子達は多く、毎回、
「謝るとしたら、その相手は自分自身でしょ。私に謝られても」
 と諭すのだった。
 と、一人が、
「謝ったら、学校の先生がいい気分になるから」
 と教えてくれ、私はのけぞった。
 こんな気の遣わせ方をさせて、まともなのか、良い歳の大人達。
 スーパーマーケットで、カート置き場に真っ直ぐに入れられなかったの
は、斜め横から手を伸ばしたが、持っていた荷物が重すぎて、うまくいか
なかったから。
 真っ直ぐに入れ直そうとしたら、後ろからガチャンと追突するカート。
「ちゃんとせんかい」
 高齢男性だ。
 あんたが待たないからだろう。
 人に罪悪感を与えて謝らせたい大人は多いのか。
 だから、叔母や学生達のように予防線で身を守るのか。