「坊主丸儲け」でも

 クリスマスが近づいてきた。
 私が英語を教えている保育園でも、子供達がクリスマスを題材にした
作品づくりを楽しんでいるが、クリスマスのすごいところは、プレゼン
トを思って、その日まで、人々が何度もクリスマスに思いを馳せること
ではないだろうか。
 思う回数が多いほど、それが気にかかっている証拠。
 すごいなあ。クリスチャンでもないのに。
 そう感じるのは、私が、私自身の宗教的根幹となるべき仏事や神事と
最低限度の接触しかない暮らしだからかも。
 秋にフランス人と田舎に旅行したら、たまたま祭りの日で、朝、神輿
行列を目撃したのだが、夜、レストランで食事中、ウェイターから、間
もなく獅子舞神事の獅子が来るので、フランス人はぜひとも頭を噛んで
もらって日本の伝統行事と触れるようにと強く勧められ、えっ、一日が
かりの行事だったの、と驚いた私自身がちょっと悲しかったなあ・・・。
 そして翌月、友達の家を訪れたら、玄関に神事の獅子がやって来て、
記憶にある限りでは我が人生で初めてのこの神事に二度も遭遇した年と
なったが、家のお祓いをしてもらうと、友がすっとお布施を手渡したの
を見て、なるほど、住人のための神事であると実感。
 が、友は、この手のことでお金が出ていくことが多いとぼやいた。
 お布施を気持ちよく差し出せるか、しぶしぶ出すことになるかは、そ
の行事への思い入れの度合いによって決まるような気がする。
 我が家は、お盆の時、寺から一方的に指定があった日時に家で待つこ
とになるのだが、十分足らずでお経を終えて、さっさと退去されると、
やっぱり、お布施を取りに来られただけという感想になる。
 母は宗教法人が課税されないのが気に喰わないと言うけれど、「坊主
丸儲け」は昔からの常識。
 要は、そうであっても、感謝と尊敬を感じられるなら、こういう批難
とはならないわけで、人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、とか、どう生き
るべきか、など、生の深淵に関わる導きがほしい時、求めてゆけば答え
がもらえる信頼が持てるならまだしも、そういう方面への啓蒙活動はな
いのに、趣味のバンドの演奏会への招待状だけは来たりすると、世襲
親から仕事を引き継いで、形だけなんだろうなあ、と嘆息して、ますま
す心は遠ざかる。
 宗教特有の排他性や狂信性が絶対あり得ぬ素晴らしさと天秤にかけれ
ば、差し引きゼロだ、とすがすがしく納得すべきかどうかは、未だ悩め
るところなのだが。