人は、時々、観音さま

 観音さまとは「苦しむ衆生の音声を聞くと、ただちに救済してくださ
る菩薩」で、菩薩はと言うと「釈迦の出家前の姿だとか修行時代の姿と
言われているが、大乗仏教が起こると、いずれ如来になるべく、修行を
重ねている者を意味するようになった」。
 こういう解釈であっているかしらん。
 軽く調べて見つかった説明で納得してしまったため、ちょっと不安。
 でも、正確な意味も知らずに遣っていたのを、この際、調べてみるこ
とにしたのは完全なる脱線で、「人は時々観音さまになる」点について
考えてみたかっただけなのだ。
 ろくでもない性格、と誰からもみなされているような人が、行きずり
の人に観音さまと見まごうような優しさを示す。
 それは「大丈夫ですか」のひと言かもしれない。
 車をバックさせるのが下手で、タイヤが溝に落ち、途方に暮れている
人に手を貸すようなことかもしれない。
 単なる気まぐれ。
 だとしても、普段の言動からはそんなことは絶対あり得ぬ人が、気ま
ぐれからでも、タイミング良く、相手の心を揺さぶる親切が為せるとし
たら、なんたる不思議。
 いや、実際にそういう現場を目撃したのではない。が、十分想像でき
ることではある。
 観音さまはこの世のありとあらゆるものを救ってくださるが、自分で
は手が出せないので、人を身代わりになさるのだとか。
 ならば、神々しい行為をしている最中の人は、その瞬間、自分であっ
て自分ではない尊き人格になったりするのだろうか。
 初めから感謝されることを前提にした親切は、あざとさが鼻につくば
かりだが、観音さまにからだを乗っ取られて発作的にそうしたい気分に
なるとしたら、それほど清らかなことはないわけで、その恩恵に浴する
ことになったなら、素直に感謝していればいいってことよね。
 デパートで湯たんぽを見ていたら、「あ、湯たんぽ。でも、結構な値
段やねえ。銅製やからかなあ」と、いきなり話しかけて通り過ぎたおば
さんと遭遇して、ふと、そんなことを考えたのだ。
 もちろん、彼女は観音さまのケースには当たらない。
 が、閑散としたデパートの寝具売り場でなぜ、という疑問はそのまま
に、深く考えることは止めた。
 単に人と人との交流。
 きっと、それだけのこと。
 で思い出した。
 昔、スピード写真で撮ったばかりの証明写真をエスカレーターを降り
ながら見ていたら、おばさん族の一人から「出来が悪いわねえ。可哀想
に」と話しかけられたことがあったっけ。