虫が教えてくれること

 パリのサントノレ通りに手頃な価格のアンティーク・ジュエリー店を
見つけて以来、そこで何点か指輪を買っている。
 緑の瑪瑙(めのう)の指輪も、その一つ。
 それを見ると、英語の家庭教師先の小学三年生は「カナブンやぁ〜」
とはしゃぐ。
 相手はたかが九歳であるからして、猫に小判であることに、怒りも憐
れみも諦めも、ない。
 が、きょとんとした目になってしまう自分自身が不可解ではある。
 その理由を『虫捕る子だけが生き残る』が解き明かしてくれた。
 虫や植物の外来種が増え、餌が変化して昆虫相が変わる、というよう
な話の中で、コガネムシと言えば銅色のドウガネブイブイだったのが、
今はアオドウガネばかりになっている、と記述があったのだ。
 綺麗な緑色の指輪からカナブンを連想するなんて、ドブ色のカナブン
しか知らない私には、悪い冗談なのかと不安だったみたい。
 そうとわかれば、陽気に「黄金虫は金持ちだ〜」と歌うまでのこと。
 すると今度は、彼女がきょとん。これは、親から子への歌の伝承が途
絶えたせいか、はたまた学校教育がその原因か。
 ところで、この本のおかげで、虫を捕ったり飼う行為の奥に潜む意義
深さに、私は初めて思い至った。
 虫への愛は一方通行。
 完璧な環境を作っても作らなくても、餌が足りても足りなくても、虫
は人間が理解できるようには気持ちを伝えてくれないし、どれだけ愛情
を注いでも、無反応。ま、人間の目で察知できないだけかもしれないの
だが。
 しかし、そういうつれない虫を飼うならば、嬉しい見返りがなくても
世話する無私の愛に目覚めるだろう。短い命に学ぶことも少なくないだ
ろう。
 父に連れられ、近くの草むらにコオロギを捕りに行くのが好きだった
幼い日の私。虫籠をたすき掛けにし、手には半透明のコップ。そのコッ
プで飛び跳ねたコオロギを捕まえるのだが、いつもなら、コップの中で
じたばたする感触が、その時は、ない。
 コップを上げたら、コオロギが死んでいる。勢いよくコップを地面に
打ち付け際、コップの縁がコオロギの首を打ち落としたらしい。そう気
づくと、コオロギの首の厚みの分だけ抵抗を受けた感触が手に甦ってき
た。
 ついうっかりの偶然で、警察沙汰にもならない、たかが虫殺し。
 だが、その感触は決して気持ち良いものではなかったのだろう。今も、
嫌な感じを、手が覚えている。
 命の大切さを、私は、その時の不気味な抵抗の感触に学んだように思
う。