自然の身売りは、慎重に

 その公共事業は本当に必要ですか。
 そう口にするには、そう言えるだけ内容を把握した上でなくてはなら
ないのだろう。
 でも、その方が「より望ましい」ぐらいのいい加減さでもいいか、と
も思う。素人の素朴な疑問が「机上の空論」に劣るとは限らないんだし。
 民主党の公約で一躍有名になった群馬県の八ッ場(やんば)ダム工事。
 広島地裁が「国民の財産である景観が損なわれる」として工事の差し
止め判決を出した鞆(とも)の浦の埋め立て・架橋計画。
 泡瀬干潟埋め立てに「公金支出差し止め」の判決が出ても、控訴した
からいいのだと工事を強硬中の沖縄県と市。
 これらの構図、何かに似ている・・・。
 あ、わかった。
 昔、貧しい家に生まれた子供は、家族の糊口をしのぐために売られた。
 今とは絶縁した昔話。
 と思っていたけど、「娘」が豊かな自然に、その所有者面(づら)し
た父親が「行政」になり、「自然」が好きに身売りされているみたいな
もんじゃない。
 ただ、食うにも困る親の、みながみな、娘と交換に目先の金品を求め
るかというと、そうではないようで、たとえば、人口千人ほどのオース
トリアのハルシュタット村は、岩塩の採掘で栄えた湖畔の村で、真後ろ
の山とのあいだに家が建ち並び、路地は狭くて車も通れない。外部との
交通手段は、湖を渡る船のみ。それでは不便だろうと橋を渡す計画が持
ち上がった時、この地の美しさを自覚した村人達がそれを望まなかった
おかげで、今やヨーロッパの人々を惹きつけて止まない景勝地になった
そうな。
 なんて賢明な村人達だったのだろう。
 向こうとこっちの差はなんなのか。
 人々の「誇り」ではないか。
 今住んでいる地を、景観、伝統を誇りに思う。
 それぞれが、それぞれにそう思えてこそ幸せなのだが、そう思えない
人の方が多そうなニホン。
 戦争に負けたから?
 そして、都会が良い、西欧風がおしゃれ、いや、都会に憧れたけど住
みにくい・・・とあたふたしつつ、とにもかくにも自尊心だけは早々に
手放した。
 傷ましきは、もはや娘と交換に手に入れるべき生活の基礎は不必要に
なっても、「強請(ゆすり)たかり」根性で一家を潤そうとする発想し
か持てない行政だ。
 それでも、ココではないどこかを羨ましがらなくても、今生きている
この場所も割と豊かな生活空間かも、と思う人が増えてきた気はする。
もしくは、そう思える場所にしたいと願う人達が。
 そこに私は希望をみる。
 甘いかなあ。