人の心は予測不能(フランス旅行記)

 先日テレビで、ロザンの宇治原が、
「洗濯物は左右対称に干すべきでしょ。それぐらい僕でも出来るし」
 と言って、さんまから、
「カノジョは心の中で、乾けばいいだけ、と思ってるワ」
 と軽くいなされる場面があったが、宇治原の言葉は、人の気持ちをわ
かる、わからない、という根源的な人間関係の問題を考える上で象徴的
だった。
「なぜ、人に″心″があるのか。他人の心の中を推し量るため」
 という言葉に出会う前の私であれば、人に自分の気持ちをわかってほ
しいし、だから、自分も人の心を正しく推し量ろうとするけど、うまく
いかなくて、「人を真に理解できることも、自分を正確に理解してもら
うことも不可能なのですよ」という先人の言葉を受け入れて、「そうい
うことなのね」と達観していられた。
 だいたい、
「人に″心″があるのは、他人の心をわかるため」
 という論法には、
「心はコロコロ変わるから、心と言う」
 という言葉遊びに通じる眉唾(まゆつば)さが匂う。
 でも、言われてみれば、確かに、人の心中を想像したり、相手によか
れとアドバイスを言う際、拠り所にするのは「私ならこう考える、こう
する」ではないか。
《私》の感じ方、考え方を唯一無二の正解だと信じて、《私》の思考を
相手に当てはめ、それ以外の方法を知らない。
 で、一所懸命になればなるほど、相手に、
「私のことを本当にわかってくれる人はいないんだわ」
 と失望され、一方、自分は自分で、
「なんで、こんなに言ってもわかってくれないのかなあ。なんで人は私
の思い通りにならない」
 と怒りが込み上げてきたり。
 マダムDが自分のことを話しまくって座を白けさせるのを阻止するに
は、無礼であっても彼女の言葉を遮るしかない。けど、私自身が誰かか
らそうされたら深く傷つくと思うと、逃げ腰になる。
 ようやく清水の舞台から飛び降りるつもりで決行したら、彼女は蚊に
刺されるほどの痛みも感じなかった模様。
 パリを出国する日、空港にL夫妻の次男が来てくれた。
 私と一時間会うために、一日の有給休暇を取ってきてくれた彼を前に
して、またもや彼女が自分のことを話し始め、私は暴力的に彼女の言葉
を遮る羽目に陥ったのだ。
 なんで、私がそうせざるを得ないように振る舞うかなあ。
 逆ギレしたくなるけれど、話の腰を折られても平気な彼女なら、私が
逆ギレしたとて、私の真意は理解されないだろう。
 しかし、なぜに、かような言動のマダムD。
 考え続けて閃いた。
 私は大きく見落としていたのかもしれない。