反応するだけの人生は

 今日は、やることがいっぱいだった。
 午前中に家の設備のことで業者が来る予定が入っていたのはちょっと
面倒だが、仕方ない。
 こういう用件があると、私はその日に向かってしゃにむに家を片づけ
る。
 床の隅に吹き寄せられた埃や、オートロックのパネルの数ミリほどの
厚みの上に溜まった埃。
 それらに目が吸い寄せられるのは「来訪者」と相場が決まっているの
は、初めて訪れる場所では誰しも、違和感を、正しく違和感だと察知で
きるからだろう。
 だから、シャシャシャッと掃除機をかけておしまいにしない。
 来訪者の眼差しで掃除する。
 静謐なる空気が広がる。
 来てくれる人への歓迎の意だ。 
 すると、ちゃんと感じ取ってくれるのか、仕事のついでに、別に教え
なくてもいい専門知識を教えてくれたりする。
 リビングのソファーは、母が洗濯して畳んだところまでで放置した冬
物衣類で埋め尽くされていたが、それらと、母が、きのう、格闘し始め
たのは見ていた。
 朝起きたら、ソファーは本来の目的を取り戻して、すっきり。
 あまりにすっきりして、
「うわッ」
 ソファーの下に積もった埃が目に飛び込んできた。
 運命は、このタイミングで私に気づかせるのか。
 まだ時間はあるから掃除をしなさい、と言うことか。
 今日は業者が風のように来て風のように去っていくとわかっているの
で、忙しさにかまけて掃除機もかけない方針に決めていたんだけどな。
 それにしても、来客準備の掃除は前日までに完了する私であるとよく
知る母が、ソファーの上を片づけ終わったのは私が起き出す直前。
「今から掃除する時間なんて、あらへんやん」
 私は八つ当たり。
 この怒りは何ゆえか。
 母のせいで予定外の時間を取られることが気にくわなかったのだ。
 おお。これって、私自身に格好の事例が降りかかってきたってことに
なるかも。
「反応するだけの人生」
 この表現に初めて出合ったと思ったら、スピリチュアルのサイト、さ
らには図書館から借りた本の中でも出くわし、続けて三度ということは、
これについて考えよということかなあ、と思っていたところなのだ。
 誰かにああ言われたら、反射的にこう感じて、かように反応する。
 相手が変わっても、いつも同じ。
 そういうことって、ありませんか。
 もしそうなら、どこに進歩があるでしょう。
 それから、よもや誰かの言葉や行動に反応するだけで一日が終わった、
なんてことはありませんよね。
「反応するだけの人生」
 は、そんな問いを突きつけてくるのであった。