学級崩壊も、なくなるかな

 電話で正しく伝えるのは、結構むずかしい。
 そう思い知らされたのは、パソコンを使い始めた初期の頃だった。
 理系の弟の強い勧めで、弟が選んだMacを購入。
 実家を出ていた弟は、私にパソコン操作の基本を教えるべく、何度か
来てくれた。
 が、トラブルは一人の時に発生するもの。
 電話すると、弟は、
「自分は何もしていないって。じゃあ、誰が触ってそうなったんや」
「そういう説明ではわからへん」
 冷たく言われて、ああ、悔しい。
 アンタが企業の相談窓口だったら、即、首が飛びますゼ、と言いたい
ところだが、黙って耐える。
 その洗礼に鍛えられたのだと思う。
 問題が発生するに至った経過を、現物を見ていない相手に理解しても
らえるよう順序立てて話す能力を身につけた。
 もっとも、電話するなら、弟ではなく、メーカーへ。
 厭味な前口上なしに本題に入ってもらえるから。
 先日、Macのサポートセンターに問い合わせた。
 私が承諾すれば、一時的に担当者が私のデスクトップ画面を見られる
状況にできるのだが、と提案される。
 画面共有しても、担当者側からできるのは、私に示すために赤い矢印
を動かすことだけ。
 了承した。
 そして、感激した。
 相談者が訴える現象を目で確認できるのだから、誰より担当者にとっ
てありがたい機能であろう。
 その結果、問題解決も早まるはずだから、相談者にも益がある。
 テクノロジーの進化のおかげだな。
 教育現場も、その威力を取り入れ始めた模様。
 授業は家で動画で受講しておく、アメリカ生まれの「反転授業」。
 堺市の小学校で始まった、タブレット端末を使う授業とか。
 それらが目指すのは、先生が前に立って板書する授業方式からの脱却。
 なぜ。
 小学校教諭だった男性が、ニホンに妻子を残してまでアフリカ僻地の
小学校で教える楽しさについて語った言葉に、その答えが見つかるだろ
う。
「ここは情報が圧倒的に少なくて、もう塾で習ったとか言う子もいない。
生徒は授業を熱心に聞いてくれる」
 従来型の授業は、そういう環境にある時、教師と生徒の双方に最大の
至福をもたらしてくれるのだった。
 しかし、あと二年で戦後七十年を迎えるニホン。
 情報は、溢れんばかりに子供達にも降り注ぐ。
 なのに、授業が旧来のままなら、少なくとも、教わる子供達が適応不
能に陥っても、仕方あるまい。
 そう気づいた人達が、新時代のスタンダードを模索し始めた。
 どこに落ち着くのか。
 激変の様子を目撃させてもらえるのは、傍観者ではあるけれど、ワク
ワクする。