大人三名・三歳直前児一名による去年四月の愛宕山登山は、「一歩間
違えば遭難」ケースとなったが、私に責任がなかったわけではない。
ただ、友が過去に一度登ったと言うので、ちゃんと時間配分してくれ
ると楽観した。
もし娘可愛さで判断が鈍っても、彼女のダンナがいる。男は生まれつ
き、女より大局的視点に立てるものでしょう。
そんな風に二重の安全装置を信じたため、このままでは本当にまずい、
と彼らのやり方に謀反するのが遅れた。
先月、広島県呉市の山中で十六歳の女子生徒の死体が見つかった事件
で、七人の加害者の中に、被害者と面識はなかったが暴行に荷担せざる
を得ない雰囲気だったと述べた者がいたらしいが、私は驚かない。
自分と、誰か。
たった二人の最小単位でも、感情的な不自由さは生じる。
その輪からはじき出されたら怖いと思うと、口を噤み、あるいは意に
添わなくても従うこともあるだろう。
友人夫婦は、登山口手前の川を橋の上から娘が眺めるのにのんびり付
き合い、私達より遅いバスで来た人達よりも大きく後れを取る登山開始
となった。
三歳前の娘の歩調に合わせて歩くから、当然、時間が経つ割には標高
を稼げない。
でも、子供を背負う「背負子(しょいこ)は持ってきていますよね」
とダンナに確認してあったので、まあ、そのうち挽回できるだろう。
しかし、娘から飴を求められ、友が、
「はいはい」
リュックから飴を出すも、
「黄色のがいい」
と言われると、
「はいはい、黄色ね」
がさごそ菓子袋の中を探る。
時がゆったり過ぎる。
私の中で警告の鐘が鳴る。
ここは途中で引き返せるような関東平野とは違うのよ。
何度かそういう登山停止時間があり、ついに私は友から飴をいくつか
受け取ると、
「はい、右側のポケットに入れておくからね。食べたら、ゴミは左側の
ポケットに入れるのよ」
その娘にルールを示し、すると、それ以降、飴のための登山の中断は
なくなった。
が、水分補給に木のベンチに座った何度目かに、娘がその大切な水を
蟻さんにかけようとする。
座り込んで、地面に指で絵を描く。
疲れてきたのね。普段はこんなに歩いていないんでしょうしね。
と、彼女が、父親に、昼のお弁当の時に地面に敷く「ABC」のシー
トを見せてくれと言い出した。
ためらったものの、その言葉に従おうとリュックに手をかける父親。
こりゃ、あかん。
「お昼の場所に着いたらね」
私は慌てて制止。
子供の言いなりになっていると、遭難する。
でも、なぜ、彼らはそういう態度だったのか。