大人になろう

 昔、友達の家で、まだ首が据わらない息子を、
「ちょっと見てて」
 と託された時は、腕が緊張しても、その状態のまま、彼女がトイレか
ら戻るのを待つばかりだった。
 が、その洗礼で、
「怖れるに足らず」
 独身・子なしの私の中の母性が突然目覚めた。
 やがて、その友が自宅で無認可の保育園を開き、預かっている0歳児
を一瞬だけ見ててと言われると、余裕で受け取り、抱え直して、もはや
母のごとし。
 と、友の姿が消えた途端、園児達に取り囲まれた。
 赤ちゃんを抱かせてほしいと小さい手が伸びる。
 私が横から手を添えれば、抱かせてもいいのかなあ。
 すぐに友が戻ってきて、瞬時に事態を見て取り、一喝。
 園児らはパッと散った。
 ふーむ。
 私は、彼らから、思いどおりになる大人だと見くびられたんだ・・・。
 その園で保育士達の行動を目にするうちに、私も毅然とした態度で子
供達と接することができるようになった。そして、園児の言いなりに赤
ちゃんを抱かせそうになった時の自分の気持ちが突き止められた。
 生まれた時から完璧な人格、尊重すべき命。
 ただし、社会人として未熟だから、大人が正しく導く必要がある。
 ところが、生まれながらに大人と同じ尊さ、という納得が行き過ぎて、
そういう完全なる命なら、自ら無理難題を言うわけがない、と思ってし
まった。
 甘い幻想。
 まあ独身だしね。
 じゃあ、去年、愛宕山登山で三歳直前の娘を連れてきた友の場合は。
 高学歴で、娘が生まれたのは四十過ぎだから、知能も年齢も言い訳に
できない。
 でも、専業主婦で我が子と二人で閉じた世界を生きるばかりだと、間
違いに気づくチャンスがないんだろうな。
 妊娠したら、保育園で子供への接し方を見学できる制度ができたらい
いかもしれない。
 で、愛宕山の話だ。
 彼らに従っていたのでは遭難すると青ざめた私は、
「もう、この子は歩くのは限界だと思う」
 と言ってダンナに娘を背負ってもらったが、愛宕神社の石段下の広場
に着いたら二時半。
 弁当を食べ、愛宕山神社に登り着くと三時半。
 参拝者はなく、宮司は賽銭箱から賽銭を集めて回っている。
 友達のダンナには神社を出る時から娘を背負ってもらったが、娘は嫌
がって大泣き。
「バス停に着いたら、歩いていいからね」
 私は凛と諭す。
「本当。おとうしゃん。バス停に着いたら歩いていいの」
 掠れ声で何度も問いただす娘に、胸が痛む様子の両親。
 けどね。
 無理は無理。
「今」しか見えない子供に同調したのでは、大人の資格はないのです。