心を開く

 前回のブログをアップしてから数日後に、メンタリストDaiGoのサイ
トを見たら、哲学者ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム
理論が紹介されていて、目から鱗
 同じ単語でも、その意味の解釈は人によって違う。ために、齟齬や誤
解が生じても当然で、コミュニケーションとは単語の意味を解釈し合う
ゲームであると、かの哲学者はもうとっくの昔に看破していたというの
だ。
 もっと早くに誰かがこの叡智を教えてくれていたら、心屋仁之助の言
う「損してもいい」の意味はわかるけどわからないと感じる私は心がひ
ねくれているか、と思い悩むことはなかったし、
「要は言葉の問題なのか・・・」
 と不安そうに書くことにもならなかっただろう。
 でも、ぎりぎりで間に合ったと見るなら、絶妙のタイミングだったこ
とになる。
 今回は、乗りかかった船で、前回ちらっと書いた「心を開く」を考え
てみる。
 この言葉に関しては、私は、心を開いたり閉じたりできるのか、と自
問して立ち尽くすようなことはない。
 自分の内なる劣等感や不誠実さ、傲慢さ、あるいは、なかったことに
したい過去や家族の揉め事など、そんなものは私にはございませんとい
うふりを押し通したくなるのが人の常だが、平気で話せる境地になれた
時、その人は心を開いた状態にある。私が定義すると、そうなる。
 ヒタ隠しにしているあいだは、心が苦しかった。
 あまりに苦しくて、観念して、そういう負の感情や過去や人間関係が
私にはある、と認めたら、苦しさが消えた。
 しかも、問題だと思っていたものは、どうでもよくなった。
 こんなことをひと様に知られたら生きていけないと深く怯えて、自分
のまわりに高い壁を築き、その中に逃げ込んでいた私は一体何だったの。
 あー、阿呆くさ。
 肩から力が抜け、さんざん大笑いしたら、隠す代わりに、誰かに話し
たくなる。
 人に語ることで、卒業した過去の自分をいとおしむ。
 そして、人に優しくなる。人をむやみに裁かなくなる。
 人であるなら心の動きは似たようなもの、と思えるからだろう。
 あなたは私、私はあなた。そういう目で人を眺められるようになるか
らかもしれない。
 医者は、自分自身がその病気にかかった経験がなくても、患者を治せ
る。
 ただ、心の分野に関してはちょっと違うのではないか、と私は個人的
には思っている。
 鬱病の人を診る医者は鬱病にかかった経験が必要、ということではな
い。
「心を開いた人」であることが必要なのではないか、ということだ。