得したい、は止めよう

 人は、自分の有利になるような行動しかしない。
 例外はない。
 もし、私は自分自身を犠牲にして人のためになることしかしていませ
ん、と言う人がいたら、自分にとって最大の得だと算盤(そろばん)を
はじいた結果がその行為だという自覚がないだけ。
 ということは、何をするのが損だと自分は考えているのかに光を当て
て、人間関係や心の問題を解決しようとする心理カウンセラー・心屋仁
之助の手法は理に叶っていることになる。
 ただ、「損」の反対は「得」ではない。
 0地点から、さらに上を目指すのが「得」。そういう心の動きを止め
たら、辿り着くのは0地点で、0地点を越えて「損」までは行かない。
 一方、返してもらえないとわかっていてお金を貸すのは0地点からマ
イナスを目指す行為だが、貸すのをやめても「得」には行き着かない。
 そう考えると、心屋の「損してもいい」は人の本質とは関係ないこと
になる。
 本当はそれをしたくないけど、しないと怖ろしいことが我が身に降り
かかる。そう信じている人は、嫌々であれ、それをすることが自分の得
になると考えている。
 その考えを疑おう。それが「損してもいい」。
 本当はこういうことをしたいけど、軽蔑されそうで怖くて出来ないと
いう人は、自分の思いを抑え込むことが長い目で見て得だと判断してい
る。
 その間違った計算高さを中止しようよ。それが、こういう人にとって
の「損してもいい」。
 あれ。「得をやめよう」と「損してもいい」が同義語になっているな
あ。
 0地点はないんだ。
 それで、私はまごつかされたんだな。
 あと、「損する」という言葉は、私の心を刺激しない。私には損した
くないという気持ちがあまりないのだ。悪あがきしたくなった時に損す
る覚悟を決めると、なぜか損せずに済む不思議を知っているからかも。
 その代わり、「得」には敏感。
 欲をかいて撃沈しても、性懲りなく得を求める。
 こういう私は、
「得したい、を止めよう」
 と言わされたら、つらい。卑しい自分の心根と対峙させられるから。
 もっとも、損も得も抽象的すぎて、どちらの場合も、すぐに、心を込
めずに何百回でも呟けることになりそうではある。
「本当にしたいことをして嫌われるなら、それでもいいと腹を括ろう」
「怖れずに傷つこう」
 など、損や得という言葉で代表させる手前の言葉の方が、私の心には
突き刺さる。
 要は言葉の問題なのか・・・。
 私は「損してもいい」に手こずらされたが、「心を開く」がわからな
い人もいるそうな。
 言葉はむずかしい。