誰が「愛してる」と言ったのか

 私は、小林麻央のブログを読むついでに、市川海老蔵のブログもサラ
ッと見ていた。
 サラッと、というのは海老蔵のブログは更新が激しいからだ。
 でも、文句はない。
 ブログを読むか読まないかの主導権は私にある。嫌なら読まなければ
いい。あるいは、記事一覧で、タイトルと代表的な写真から気を惹かれ
たブログだけ読めばいいだけの話。
 ところが、海老蔵が六月二十七日に『朝の一服とお許しを』というタ
イトルで、
「更新しすぎという意見もあるとか」
 と書き、
「こころの在りようを表す事で少しだけ
 気を取り戻せる気もするのです。
 お許しくださいね」
 と書いたので、更新しすぎを批判されているらしいと知った。
 そして、このブログを受け、更新しすぎであると批判した人達を批判
する記事がインターネット上に出た。読みたくなければ読まなきゃいい、
ということで結論が出ていると思う私には、この舌戦も不思議だった。
 海老蔵自身が書いているとおり、彼は口に出しては言わないであろう
思いをブログに吐露していて、特に麻央が亡くなってからは、ああ、そ
う感じても当然だろうなあ、と共感させられることが多い。書くことの
良さである。
 しかし、麻央の死後、海老蔵のブログの頻度より、もっと本質的に重
大なことを目撃した、と思えたことがある。二十三日午後二時半から行
なわれた海老蔵の会見の中で、麻央がもう言葉を喋れなくなっていたの
に息を引き取る瞬間、「愛してる」と言った、と海老蔵が語った時だ。
 女性リポーターは、「愛している」と言ったのは海老蔵だった、と正
反対に理解した。
 幸い、その理解で合っているかすぐに確かめ、間違いに気づけたよう
だが、なぜ、あの海老蔵の言葉を正反対に理解できたのだろう。
 麻央が喋れなくなっていた、という情報から、最後まで喋れなかった
はずだと思い込んでしまったのか。
 日本語は主語を省くことが多く、その分、ほかの、たとえば英語など
よりも文脈で理解する能力が必要になる。
 多くの人が見たであろうあの場面で、日本語の特性ゆえに起こりがち
なことが、まさに起こったことは、いろいろ考えさせてくれることにな
り、ブログの更新の多さなどよりもっと議論されてもよさそうなのに、
誰も話題にしない。
 私達は言葉を喋っているが、言葉を言葉として理解するのではなく、
そこから受ける意味を理解している。
 言葉の遣い方一つで仲違い(なかたがい)したりするのもするのもそ
のせいで、考える価値はあると思うのだが。