麻央ブログのすごさ

 知り合いの看護婦と話をしていて、私が小林麻央のブログを読んでい
ると言ったら、私もよ、と彼女。
 良くなってほしい。
 二人でそう話した矢先の翌日二十二日夜、麻央が亡くなった。
 もう彼女のブログは更新されない。
 私は誰かのファンだったことも、麻央のファンだったこともない。
 だが、彼女がブログを始めたと知り、好奇心から読んでみて、以来、
欠かさず読むようになった。
 彼女の体調を考えれば、何度も推敲して練り上げられた文章だったと
は考えにくい。心に溢れてきた言葉を紡いだら、そういう文章になった、
と見るべきだろう。それらの言葉がキラキラと美しいのだ。
 人生の洞察力。
 自身の心を見つめる冷静な眼差し。
 それが、哲学的とも詩的とも言っていい簡潔な文章で書かれていて、
彼女の精神の気高さが伝わってくる。
文は人なり」と言う。
 哲学者、故・池田晶子は、
「正しい言葉を話す人は正しい人だし、くだらない言葉を話す人はくだ
らない人だ」
 と述べた。
 言葉は、それを使う人を過不足なく表わす。
 だが、いきなり、その域まで到達して生まれてくる人は少なかろう。
 たとえば、「人に感謝せよ」と言われる。
 なるほど、と思っても、この人には感謝したくない、などと抵抗する
我が心に直面して、なぜなんだ、と葛藤する。しかし、正しい目標から
目をそらさなければ、いつの日か、自然に感謝できる境地に到達できる
だろう。
「感謝せよ」
 という言葉は、その道を行くよう示してくれている、と受け止めてい
たが、世の中には、じゃあ、感謝している振りをして、感謝の言葉を言
っておけばいいじゃん、と考える人もいるらしい。
 だから、「正しい言葉を話すくだらない人」も存在するのではないか、
と思いたくなるが、その人が口にする一番くだらない言葉がその人自身
なのだと考えれば、それはあり得ない、とわかるだろう。人は、うわべ
を取り繕っても、本性はばれる。
 もちろん、心の中に暗く汚い思いが渦巻いているのに、絶対にそれを
出さない人がいるかもしれない。そういう人は、狡獪なのではなく、理
想とかけ離れた自分自身を理想に向かって近づけるべく、「一人修行」
の最中なのだ。
 言葉によって、その人を知る。
 会見の席で海老蔵が麻央のことを、
「私からすると、人ではないというか・・・なんかすごい人」
 と評した。
 私は小林麻央のことは彼女のブログで知っただけだが、海老蔵の言葉
はストンと心に響いた。
 彼女は、人だが、並みの人を越えた奇特な人だったのだ。