京都に近い

 大学時代、バイトで京都、奈良、滋賀、大阪のバスガイドをしていた。
大型バスの駐車場がある所しか回れないが、そういう有名な神社やお寺
は仕事で回ったから、もう知り尽くしている、もう十分、とその後は背
を向けていた。
 しかし、観光に来た友達を連れて行くようになると、表面的なことし
か知っていない気がしてきて、それに何より、その場に身を置く爽快さ
に目覚めた。
 掃き清められたすがすがしい場所。その非日常。
 日々の生活の中で気が枯れたら、そこに身を置くだけで、気枯れ、つ
まり穢れを浄化してもらえる、と実感できるようになったのだ。
 すると、気軽に日帰りで行ける贅沢さを感じるようになった。予定し
た全部を回れなくても、また今度来ればいいわ、で済むし、宿探しの心
配もない。
 東京の会社に就職した知人の男性と、この夏、再会した。彼は退職し
ても戻らないと公言している。東南アジアの少数民族がいる所やアフリ
カ、キューバなど、少し偏った旅を好み、そして、東南アジアの旅に触
発されたらしく、佛教大学の通信講座を受講し始めたそうな。
 彼は独身だし、その時が来たらマンションを売って帰ってきたら、と
今からそそのかしている私。
 古都が日帰り圏内にある地の利を鼻先にちらつかせたら、
「その点だけは羨ましい」
 と彼。
 でしょ、でしょ。
 先日、鈴虫寺に行った。
 嵐山に行く際、立ち寄ろうと調べたことがあるが、最寄りの駅から少
し歩かねばならず、嵐山に行くついでで行くには時間が足りないと判断
して、断念。いずれそのうち、と思っていたら、ゲッターズ飯田がブロ
グで一生のうち一度は行っておきたい場所だと紹介しているのを読み、
「すぐ行けー」
 と言われた気がしたのだ。
 友を誘って行った。
 鈴虫寺のお参りの第一章は、書院でお坊さんの説法を聞くこと。よく
錬られた漫談のようで何度も笑わされ、二、三十分などあっという間。
 その後、全部で五千匹以上いるという鈴虫の飼育箱を見て回っている
うちに次の参拝者達が入ってきたので、庭園へ。
 平日だが一緒に説法を聞いた人達は七、八十人はいただろう。なのに、
もう誰もいない。
 ここは、一つは願いを叶えてくれるというわらじを履いた幸福地蔵菩
薩が有名で、それが目当てだとしても、あまりに現金ではないか。
 でも、遠方からの参拝者なら、なるべくたくさんの場所を見て回りた
いだろう。それが彼らの贅沢。
 私は、雨の建仁寺で、友とお喋りしつつ庭を愛でた一時間半あまりを
思い出した。