もうちょっと「凶」がいい

 先月、お彼岸のお墓参りの帰りに、その近くのお寺にお参りした。
 金運で有名なお寺で、お守りは前回のお墓参りの際新しく買い直したか
ら、今回はお参りとおみくじだけ。
「凶」。
 えー。お墓を綺麗に掃除したのになあ。持って行った布では足りなくて、
ハンカチまで使ったのになあ。
 運気は甚だよろしからず。
 何事も慎め。
 短気はならぬ。
 時節を待つべし。
 病気重し。
 悦びごとなし。
 売買、利なし。
 望み、為りがたし。
 失せ物、出ず。
 争い、負けなり。
 旅行、見合わすべし。
 運命の底の底とはこういうものなのか。笑えるほど救いがない。
 が、
「総じて当分何事もせず神仏を祈りて時を待つべし」
 という締めの言葉で、閃いた。
 そうか。積極的に何かをしようとせず、受け身でいたらいいんだな。
 二次的と見なしたい所用に手を取られ、それだけで疲れ気味になり、確
たる事は何もできていない、と気ばかり焦っていたのは、そうか、当分は
この状況に身を任せ、流されていればいい、とお墨付きをもらったってこ
となんだな。
 そう気がつくと、「凶」のご神託が、私にとって実に適切な、ありがた
いものだと感じられてきた。
 怠惰こそが吉となる時期なんだ。
 しかし、人間とは、自分に都合が良いとなったら、すぐにそれに胡座を
かくものなのか。いや、私は、と言うべきなんだろうけど。
 日ごとに春めき、枯れ果てていた木々の枝先や、葉の間から、ツンと春
の表情が顔を出し、それを見て人間の私は、春の衣服に入れ替えたい、冬
だからと放置していた室内を綺麗にしたい、と自然にそわそわしてくる。
 なのに、いやいや、そのために窓を開放したら花粉が家の中に入ってく
るから今はまだ駄目、とそれらしい理由を見つけ出してきて、怠惰を続行。
下手をしたら、「凶」の有効期間をどこまでも延ばしそうな勢いである。
 先週、京都大原の三千院に行ってきた。
 その日しか友と日が合わず、今年は桜は咲いてもすぐ散る気温の上昇だ
ったので、期待していなかったが、低くても山は山であることを過小評価
していたと深く反省させられることになった。
 行ったら、ちょうど満開の桜。山桜もまた然り。
 そして、引いたおみくじは「吉」。
 此みくじにあふ人は病人の起る(たつる)ごとく一日一日とくるしみと
けよろこびにあふべし。
「凶」のおみくじからの流れがあまりに自然で。
 ニホンの神々よ、互いに連携しているのですか。
 と感心している場合ではない。
 もう始動しろって言われたんですよね、私。