買う時は、夢見る

 物を大切にするとは、物の寿命を全うさせてあげる、ということにな
るだろうか。
 寒いさなかの十二月に小豆を買ったはいいけど、一度に全部煮て冷凍
しようと予定しながら、実行できぬまま春を迎え、穀象虫を湧かせた私
は小豆に申し訳ないことをしたことになる。
 小豆のような事態には陥っていないが、とっくに使い切っていていい
干し椎茸の使い残しや、封を開けてもいない棒寒天を見たりすると、肩
をすぼめたくなる。
 現時点までに使わずに済んでいるのなら、不要な物にお金を遣った、
つまり「無駄遣い」したという判断になるからだ。
 が、新聞で、年老いた母親が不必要な物を通販などで買い込み、家中、
物だらけになるのをどうしたら止めさせられるかという女性からの相談
に対し、回答者が、止めさせてはいけません、止めさせるのはおかあさ
んに死ねと言うようなものです、と答えたのを読み、私は「あっ」と納
得させられた。
 物を買う時、人は心になんらかの夢や希望を抱く。
 手の届く夢であり、希望である。
 バランスボールは、これを使ってインナーマッスルを鍛え、体の軸も
正しく保てるようになりたいと、そうなる未来をしっかり心に描いて購
入した私だったのではなかったか。
 意に反して埃が積もり、単なる場所塞ぎと化し、事あるごとに母親か
ら文句を言われることになっても空気を抜くことができず、もう少し暖
かくなったら使うんだからと抗弁してしまうのは、こうなってもまだ夢
と希望を手放せないから。
 小豆だって干し椎茸だって棒寒天だってターメリックだって、買う時
にはすぐにも使い切りそうな勢いで、それらのおかげの健康的な料理を
夢見た。信じた。
 けれども、またどうせ使わずじまいになる、と小利口に達観して、は
なから夢に背を向けるのがいいかと言うと、そうなったら、投稿の回答
者が指摘したように、生きる意欲が失せるであろう。
 突き詰めればアレもコレもどうしても必要というわけではない、とい
う結論に落ち着いてしまうはずだから。
 今、新たな目で、このままゴミ箱行きになるやもしれぬ物たちを眺め
ると、それらを買った時の弾む思いや決意が甦ってきて、その時、そう
動いた心がいとおしくなる。
 もちろん、生きる意欲のために不要な品を次々買うのいいとは言わな
い。
 努力してもどうしても無駄は生じるということ。
 でも、なるべくそうならないようコントロールできたらすごいよね。
 そんなところだろうか。