春は、虫

 台所の白いラックの一番上は、私専用。
 インスタントコーヒーの瓶を取り出そうとしたら、扉に黒くて小さい
虫が張り付いている。
 紙で取って捻りつぶし、扉を開けると、コロンと死んでいるのや生き
ている仲間が二、三匹。
 米粒ほどの身長で、背中がぷっくり膨らんだ彼らはこれ以上はいない
と思いたいが、中の物をすべて取り出し、点検しなくちゃ、そう言い切
れない。
 食器と乾物などしか入れていないが、もし彼らの触手が及んでいたな
ら、泣く泣く捨てることになるであろう。
 実際、ジャムの空き瓶に保管してあった紅茶は、すぐさま捨てた。
 有機栽培の紅茶だが、値段を思うと軽々しく飲めず、大事に置いてお
いたら、これが虫と見まごうコロンとした形状で、一匹ぐらい蓋から中
に入り込んだのがいるかも、と想像力が羽ばたくと、問答無用でそうす
るしかなかったのだ。
 ほかの食品は、即刻、冷蔵庫に避難させた。
 がらんとしたラックの棚の奥に数匹見つかった彼らにも昇天してもら
い、さあ、これで退治は完了。
 ここで初めて、愚かな私は正しき判断力に目覚めた。
 彼らは羽根のない虫。
 どこかから飛んできたわけではない。
「すわ、救済」と、遅まきながらも温度の低い冷蔵庫に避難させた食品
のどれかに虫が湧いている、というのが真相ではないのか。
 今頃、冷蔵庫の中を虫がうろちょろ・・・?
 ぞーっとして、入れたばかりのを全部外に出した。
 幸い、冷蔵庫の中に怖ろしい悪夢は実現していない。
 で、発生源は?
 ・・・ない。
 そりゃそうよねえ。干し椎茸やら棒寒天やら、乾物がほとんどなんだ
もの。
 中でも大切なのは、小豆(あずき)。
 いとおしい眼差しを買ったままのビニール袋の中に向けたら・・・赤
黒い小豆と小豆の隙間に、それより小ぶりの黒い豆のような物が見える。
 目をこらすと、のそのそ動いている気配。
 小豆の数と同じか、それ以上、うごめいているではないか。
 去年の年末に丹波地方の名産市が立った日、黒豆と一緒に買い、黒豆
は正月に煮て食べたが、小豆は、煮たのち冷凍保存し、小腹が空いたら
砂糖をかけて食べようと思いつつ、着手できずにきたが、この小豆には、
穀象虫の卵がこんなにも産み付けられていたのか。
 食べられなくなったのは、結果的にはよかった、と思うことにした。
 それにしても、穀象虫は気色悪かったが、彼らも懸命に生きているの
だと思うと、ああ、春だなあ。