今は、脳死はイヤだなあ・・・

 生きるって、どういうこと。


 長く生きれば、成功なの?
 健康なのが、成功なの?


 誰か教えてくれないか。


 人は、いつか死ぬ。
 なぜって、この世に生まれてきたから。
 生は原因。
 死は結果。
 言われてみれば、ああ、なるほど。
 納得したら、 
 つまらない心の揺れは止み、澄んだ気持ちが訪れた。


 死を間近に実感していない人間の、のんきさなのか。


 人の命と引き替えであれば生き延びられると言われたら、
 誰しも、昂然と人の死を待ちこがれる者になるのだろうか。

 
 今の私は、そこまでのエゴは駄目でしょう、と思っている。
 だけど。


 臓器提供者をもっと増やし、自分や自分の子供を救ってくれ、
 と訴える声の中に、
 実はね、
 中には、誰かの死と引き替えに生き延びるという発想が嫌で、
 その手段に背を向けている人もいるのだよ、
 という言葉は、一つもない。
 たった一つも聞こえてこない。


 で、私は考え込まされる。
 要は長生きこそが生きる価値、と言われたようで、思い悩む。


 二人の子を持つ叔母が、
 その昔、事故のような事態に遭遇し、
 早産で子供が生まれて、三日目に死んだ、
 それが一番最初の子であったと、
 先日、初めて私に語ってくれた。
「親は、自分の命に替えても子供を助けたいと思うものよ。
 私も思った・・・だけど、三日で死んだ。それも運命」


 私は自問する。
 もし自分の命と引き替えであれば、我が子の命が救えるとなったら、
 人は、言葉通りを実行できるのだろうか。


 あるいは、
 子供が二人いるとして、一人が臓器移植を待っているさなか、
 もう一人が脳死になったら、親たる自分はどう判断する。


 あるいは、
 脳死状態の人に、誰かの脳の一部を移植すれば、
 脳の機能が取り戻せるような未来がやって来るとしたら、
 誰かの脳死を待つ人と、
 誰かの心臓死を待つ人、
 どちらの命が、率先して助けるべき命の対象となるのだろう。


 人には、エゴがある。
 他人よりも家族を優先したいエゴがあり、
 家族の中なら、
 本能的に自分自身を優先してしまうエゴがある。


 哀しきエゴ。
 でも、それが人間。


 だから迷う。だから悩む。
 何が公正な判断になるのか。


 衆議院で、思いもかけず、すんなり、臓器移植法改正案のA案が可決された。
 このまま新たな法律となってしまうような場合、
 私は願う。
 にもかかわらず臓器提供者が増えないじゃないかと、
 次なる要求が突きつけられたりしないこと。