悪筆の理由

 私はペットボトル飲料をほとんど買わない。買っても、飲み干したあ
と、何度か水筒代わりに使用してからでないと捨てない。ケチなのだ。
それに、再生されるとは言え、ペットボトルの山を見ると、罪悪感を覚
えてしまうからでもある。
 よって、先日、会議用にペットボトルのお茶を準備するよう命ぜられ
た時には、手ぐすね引く思いだった。お店の人に売れ筋を聞き、でも、
「会議に出る人達だから、おじさんじゃないですか」と想像で特定し、
七種類用意した。せっかくだから、どれからなくなっていくか、おじさ
んの好みを市場調査させてもらおうというのである。
 しかし、会議に出る層イコールおじさん、という固定観念は、二十を
過ぎた女は皆おばさん、と発言する男と同じ頭のレベルになってしまう
のではないか。やばいかも。
 さて、お茶は、私の予想を裏切り、「七色亜茶」や「口切り一番茶」
が早々に姿を消し、ウーロン茶は二つのメーカーのがどちらも残った。
手堅い安全パイとしたはずが、そうならなかったのである。
「ウーロン茶は、この頃、古いって感じがする。みなさん、意外に心は
若いってことじゃないですか」と一緒に受付けに立った同僚が分析した。
 そこで、日を改め、店の人に結果報告したら、「え、そうでしたか。
でも、うちでは結構出てるんですけど…」
 同じ店に出入りしているのに、買う側と売る側で意見が分かれた。
 ペットボトルは、飲む時、天を仰ぐか、一瞬受け口の人に変身しない
と、中身がこぼれてしまう。相手の目を見つつ、お茶を飲むという仕草
が優雅にできかねる構造なのだ。
 優雅と言えば、近頃の若い人は、字の書き方が優雅じゃない。筆を垂
直に立てるか、向こう側に倒れるほどに立てる人も多い。
 この現象をどう理解すべきかと首を捻っていたのだが、手の負担を軽
減するらしい高価なシャーペンを買ったのに、書くしりからボキボキ芯
が折れ、メモすらパソコン入力を徹底することになった我が身を振り返
り、もしや、シャーペンのせいでは、と言ってみたら、「確かに、シャ
ーペンを使い始めた時はボキボキ折れた」と今や立派に垂直持ちの相手
が答えた。筆という言葉を遣っても、意味するところはシャーペン、ボ
ールペンの現代的必然だったわけか。
「日本語に下から上に書く筆順が多くなれば、元に戻るだろうけど」
 そこまでの洞察力はなかったので、議論できてよかった。
 次世代の筆記用具が現われるまで、手書きを忘れない私でいられるか
なあ。