今日の思索

 手近に読む物がないとなったら奥付けのようなどうでもいいものでも
読まずにいられない自分は活字人間だ、と知り合いが自身を評価した。
 私の場合、自分にとって読むに値するものしか読まないので、同類に
はならないだろう。ただし、原作の映画化・テレビドラマ化でヒットし
た作品は、映像は見なくても、原作は読むのだが。
 映像で見た方がよっぽど速いのに何してんだろ、と思わないではない
けれど、DVDで時間を自由に調節できるようになってもそちらに積極
的に触手が動かないから、何人間になるかは別にして、この症状は真性
であろう。
 せめて文字をワシワシ消化して読書時間を短縮できないものかと速読
の本を読んだら、英語が身に付かないのは英和辞典を引いて日本語ばか
りが上達する勉強方法しかしていないからだ、と速読練習用に取り上げ
られた文章に納得させられるだけに終わった。
 いや、気迫を持って臨めば何とかなる、と勇気づけられたことはあっ
たし、浅田次郎週刊文春に『不動の活字』と題して書いた一文にも、
いたく力をもらった。
「…不動の活字は感性の領域ではない、思惟の領域に存在するという事
実であろう。つまり、活字を読まなければ馬鹿になるのである。」
 小説を読む時、一人一人の登場人物の顔かたちが具象となって見える
ことはない。しかし、舞台背景を含め、気配や雰囲気は濃厚に立ち上が
ってくる。
 そのようにして、山崎豊子が描く過去の大阪船場貴族の生活を、そこ
に居るがごとくに楽しんだ。
 金があるだけでなく、その階級のしきたりや因習にも縛られる。それ
が、金はないがお気楽な庶民と一線を画するものとなる。
 金持ちイコール人格者はあり得ないから、自分のしたい放題をいさめ
にかかってくる不条理な足枷が存在する中で、なんとか自分らしく生き
ようとあがく姿が人格者のごとき幻想を生じせしめる。
 今の金持ちが魅力的に見えないのは、金のある庶民ばかりになってし
まったからだろうか。
 いや、外からの力で人格者にさせられるのでは本物とは言えない。
 要は、その人次第。
 その方がずっとすがすがしいし、もし、周りにいないとしたら、自分
がなればいいのだ!
 目指せ、成金人格者。
 ん。みんな、とっくに目指してた……?