出口を塞いで相談するな

 声をかけられたら、どんなに忙しくても、これ以上仕事を持ち込まれ
たくなくても、それはそれ、私の事情であって、声をかけてきた相手に
は関係ないので、明るく「はーい」と返答する。「どんな時にもハ〜イ
と答えられる自分でありたい」と言った田中裕子の言葉をそのように理
解して、私の行動規範とさせてもらっている。
 ところが、プライベートとなったら別。特に、ある友達から電話がか
かると、私の第一声は相手をひるませそうに暗くなる。気の置けない友
達との長電話は楽しいはずなのに、どうして警戒心が先に立ってしまう
のか。
 誰かと話をしたい、言葉を交わしたい。その時欲しているのは、俵万
智の“「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたか
さ”(『サラダ日記』)かもしれない。しかし、同じ空間を共有できず、
ただ時のみを共有する電話は、それだけでは長電話にならない。相手が
喋る分には聞いていられるけれど、私からは積極的に言葉が出ない。そ
ういう私とわかっているからなのかも。その友達は、やたらと悩みをも
ちかけてくる。
 すると、意見を求められたら自分なりに考えて答えを返すよう教育さ
れた成果か、私は、俄然、雄弁になる。それでも、私が一所懸命答えて
も、それが彼女の次なる行動や考え方に一向影響を及ぼすことがないと
学べば、さすがの私も用心深くなろうというものである。
 要は、あなたのために熱くなる私を求めているだけなのね。
 それはそれで、よしとしよう。
 でも、どうすべきかと対策を求められ、いくつか手立てが考えられる
のでそれを告げ、その一つ一つに出来ない理由を返してこられると、私
は苛立つ。出口をみんな塞いでおいて「やっぱり仕方ないのよね」とあ
きらめ口調で現状肯定するのは勝手だけど、私に相談してもそれしかな
かった、などとは、まかりまちがっても考えないでよね。
「したい、したい」は「死体」に聞こえると田口ランディが書いていた。 
 一歩、ううん、半歩でいいから、思う方向に足を踏み出してみる。そ
れをしないということは、する気がないということなのだ。死んでいる。
 そういう話に付き合わされる。
 もっとも、出口を塞いで相談してる、という不満は彼女にちゃんと伝
えた。そういうことができるから、友達でいられるのだろう。
 彼女はてへっと笑っていた。
 懲りていないと見た。