本当の自分

“自分探し”という考えが頭に残っていたからだろうか。本をぱらぱら
めくって「本当の〜」という小見出しが目をかすめたら、「本当の愛で
男を変えられるか」が正確な言葉だったのに、目は勝手に「本当の自分」
と読み、おお、そうじゃった、“本当の自分”も考察するに値する、と
思考が刺激され、そうなったら、もう思考は止まらない。
 折しも、私は、まわりの人から立て続けに「パワーを振りまいて」と
か「パワフル」と評され、思わず、「本当の私はそうじゃないのに」と
ぐじぐじ言いたい気分に襲われていたのだ。基本的に“本当の自分”な
んて、自分がそうありたい、あるいは、人からそう見られたいと願う幻
想にすぎない、と見ている私なのに、である。
 自分がそうありたいと言うのは、たとえば、本当はこうしたい、こう
言いたい、と思っている “素”の気持ち。でも、そのまま表現しない方
がよいという判断力が働いて、角(かど)の取れた行動や言い方をして
しまう。
 それはいけないことか、そうやってコントロールした自分自身は“本
当の自分”ではないのか、を検証するためには、極端な例を思い浮かべ
てみるのが一番。誰かを殺したいのが“素”の気持ちであれば、と考え
てみると、“素”の自分のままに行動するのがよいわけではない、とわ
かる。
 ただ、たとえば、誰かとの間に心理的に主従関係のようなものができ
ていて、その人に対し、条件反射のように自分自身を抑える反応をして
いる自分に気がつき、もうそれは息苦しい、と感じつつ、殻を突き破れ
ずに悶々としてしまうような時、「本当の自分」という言葉がすーっと
心に忍び込んでくるのかもしれない。
 まあ、人殺しは極端すぎる例であり、普通は、どんな風に自分自身を
外に出しても、そういう人間と受け止めてもらえる。ということは、今
の自分は演じている自分で、それはやめにしたい、と思ったならば、や
めればいい。言うのは易しいんだけど。
 なぜって、新しくなった自分自身が周囲にどういう反応を巻き起こす
か不安だし、それで仲間はずれにされるのは嫌だし、やってはみたけれ
ど、やっぱり長年馴染んだ条件反射に戻るのが楽で、結局、いっときの
謀反という腰砕けに終わる可能性も高いからだ。
 でも、 “本当の自分”という発想が心に浮かんだ時は、今の自分を窮
屈だと感じ始めたシグナルであることは間違いなさそうだ。