自尊心は、なぜ傷つく

 たとえば、合コンのように、まだ全員の人となりを深く知るまでには
至っておらず、ほぼ第一印象でこの人が狙い目かな、と心ひそかに思う
時、私は必ず、誰もが最高得点を付けるであろう男ではなく、その次に
控える二番手を選ぶ癖があることに気がついた。学生時代も、クラスや
学年で一番もてると評価が定まった男の子はまず除外していたなあ。私
の中で彼の得点が低かったからではない。それどころか、ほかの女の子
同様、私も、人間的には彼が最高、とみなしていたにもかかわらず、で
ある。
 そこには計算があった。一番人気は競争が激しいだろうから、そうい
う無益な闘いに私自身を敢えて巻き込むことはあるまい。でも、二番手
ならば、なんとかなりそう。
 長年そんな風に考える傾向にあった自分を思う時、私は愕然とする。
 なぜって、手堅さを優先させた戦略のように見えて、なんのことはな
い、最大の理由は“自尊心”だったからだ。チャレンジして却下された
ら立ち直れない。それと“自己卑下“。すなわち、きっと私なんか相手
にしてもらえないだろうという思い込み。ところが、この二つが組み合
わさると、「私なんか初めから眼中にないだろうから、チャレンジする
ことはない」と素晴らしい理屈ができあがり、「自尊心を傷つけられそ
うなことには近づきたくない」という本音がすっぽり抜け落ちるのだっ
た。そして、耳に心地よい理屈は、かくも長きにわたって、私を支持す
ることになった。
 馬鹿でした。次善で手を打つことで自尊心が護れると考えていたのだ
から。
 しかし、自分が最高とみなすものが、他の人にとって最高にならない
場合も多いとわかってから、自分が最高と位置づけたがために、ぶるっ
て、勝手に玉砕することの滑稽さに思い至ったのであった。
 私には最高を手にする権利がある。私はきっと手にできるだろう。そ
の最高とは、純粋に私自身にとっての最高ということなのだから。 
 万一、その最高が手から滑り落ちることがあっても、ああ、私にふさ
わしくなかったのだ、と考えて、本当の最高に目覚める。
 あくまでも主体は私。私の意識。
 ところが、「自尊心が傷つく」とは、他者から正当に評価されないこ
とを不愉快に感じる心の動きであり、他者が主体となることを許してし
まっている。
 自分自身を尊重するのに、どうして他者の眼差しを気にするのか。
“自信“の問題だろうか。