魂は浮気性

『ツチヤ教授の哲学講義』で、しょっぱなに、宗教と哲学の違いが明快
に解説されていて納得がいったが、“生きる意味”などに思い悩むと、
限りなく宗教に近づくように思う。
 まさしく自分の心の傷の理由を言い当ててくれた良い本である、と感
動して、最終ページに記された連絡先に連絡を取ったら、集会や、別の
本や、魂の浄化に効く物品販売の案内が送られてきたり。
 自ら宗教と任じていなくても、そういう行為をすれば、もうそれだけ
で立派に宗教活動であると私は見なす。良き教えを本で伝えることで完
結せず、仲間集めを志向しているからだ。
 だけど、本を読むぐらいインテリなら、どうして、さらにもっと本を
読まないんだろ。膨大に本に当たれば、それに比例して、心の琴線(き
んせん)に触れる言葉に出会え、そのたびごとにその教えの信者となっ
ていた日には身が持たないゾと理性が発動する。それに、よく似たこと
を、言葉を換えて、いろいろな人が述べている場面にも出くわす。そう
いう可能性に蓋をして、コレ、と閃いたところで立ち尽くすのは、大海
で溺れていた時に掴んだ藁に恩義を感じ、もうそれ以外には目を向けな
いと固く心に決めたみたいに私には思えるのである。
 心の扉を開いてくれたことに感謝しても、100%はのめり込まない。
そして、宗派を問わず、お金儲けの本からであっても、魂の救済となる
言葉は吸収する。良いとこ取り手法だ。そうして、自分なりに良き言葉
を集めて集大成すれば、“私”という宗教が作れるというものである。
 まあ、そう考えるのは、徒党を組むのが苦手な孤高なる性格が背景に
あるからだろう。けれども、生きる意味や心の平和を求めるのに仲間で
つるむ必要があるのかは、やはり疑問だ。
 誰かと一緒でないと救われない精神って、甘えてないかい。
 たぶん、そういう人はさびしいんだろうな。
 誰かと一緒に安心したい。そして、私を正しい方向に教え導いてもら
いたい。
 だけど、頼むよ。
 もうちょっと孤独に強くなろうよ。
 人は、元来、孤独な存在なんだから、そこのところは腹を括ろうよ。 
 そして、自分自身を明け渡し、受け身になることで精神的に楽になり
たがるのはなぜ、と心の奥を覗きこんでみようよ。
 それもせず、ただ魂が救われていないのが問題なのだと思って宗教に
のめり込むと、必ず周りを巻き込もうとして、まずは家庭が崩壊する。