時は巡って

 桜の花が散り、葉桜になった。毎年のことである。
 ところが、花びらが舞い落ちるのを見て、しみじみ“桜吹雪”を実感
し、桜以外でこういうことはない、と認識したのは、恥ずかしながら今
年が初めてだった。
 もしかしたら、梅の花なんかも“梅吹雪”状態になるのかなあ。他に
も、散る時、そうなる木はあるのかもしれない。それでも、そういう光
景を見たことがないので、私の狭い経験世界の中では桜のみ。つまり、
桜がいかに特別かに感動してしかるべきなのだが、毎年、この時期にな
るとテレビや新聞で報道される百年一日のごとき内容に、ああまた、と
意識の表層で横着に反応していただけだったとは。ああ、ショック。
 私には、この手の認識の甘さが他にも多々あり、昔からコンプレック
スになっている。だから一層、何に対しても、本質を見極めたい、と、
しつこく、躍起になってしまうのだろうか。
 ところで、本質ということから、いきなり英語に話が飛ぶのだが、今、
英語教育では、ますます、話せる英語への要望が高まっている。だった
ら、どうして発音記号を教えないのか、が私にはどうしても解せない。
 ひらがな・カタカナが発音記号と同義になる日本語とは違い、英語は、
スペルがわかっても、発音記号を知らなければ、辞書を引いても発音で
きない。発音に関してだけは知っている人に聞くとなると、いつまで経
っても自立できないことになる。
 テレビで、ひらがな・カタカナを自己流にアレンジし、発音記号の代
わりにして教えている英語教師の授業をやっていたが、その独創的な授
業の中では成果が出ても、その先生の授業を受けられなくなった途端、
やはり、路頭に迷う構図は目に見えている。
 今は、勉強の負荷を減らすということで“筆記体”も教えなくなった
ぐらいだから、いわんや“発音記号”なのだろう。でも、私は教えるゾ。
だって、それこそが自立の手段だと思うから。
 教育とは、自分一人でも学び続けられる手法を教えることだ。
 それでいい、と自信をつけさせてくれたのは、以前、私が家庭教師を
していた女の子。当時、ヒヤリングだけはいつも90点以上だったらし
いし、今も、彼女だけが私の英語を聞き取れる。それを目の当たりにし
た人から、娘の家庭教師を頼まれた。 
 娘は、初日に、私が発音記号を教える理由を説明すると、ちゃんと乗
り気になってくれた。
 そんな私のルーツは、発音記号を教えてくれた塾の先生に辿り着く。