人生は多難

 前々回、思わず暗くいきり立ったのは、知り合いの奥さんが宗教にの
めり込んで家庭生活が崩壊し、離婚に至ったと聞き、つい力こぶが入っ
てしまったからだった。この手の話はこれが初めてではない。
 宗教がらみのことでは、夫婦のどちらかが、もう片方を引きずり込み、
夫婦一体になれることはほとんどないように思う。必要に応じて心の支
えにするという限度を越え、それが最優先となる生活は、普通の人に適
応しきれるものでないからだろう。 
 もっとも、稀に、似た者夫婦として同じ歩調になれる場合もある。
 ある友人は、子供のアレルギーがきっかけだったと思うが、近所に素
晴らしい鍼灸の先生を見つけた、と足繁く通い始め、そのうち、夫も巻
き込み、一家三人がかかりつけとなった。私は、そんな幼いうちからね
え、と連れて行かれる子供に心秘かに同情していたが、やがて、鍼の先
生から「このままだと御主人は三年持たない。ここ三年が勝負だ」と宣
告されたと彼女がおろおろすると、憮然として、「もう、それは宗教だ
よ、脅しだよ」と眉を顰めた。
 宗教とは、自分がそうと信じれば、客観的合理性が証明できなくても
“真”と見なす世界である。心の平安を得るための手段。ところが、そ
こに支配や脅しが顔を出せば、人ごとでも「ちょっと待った」だ。とこ
ろが、そうなると、理屈が通用しない個人的納得の世界であるだけに、
まともな論争は成り立たず、勝ち目のない闘いに終わるのが普通。
 友人は、少し前から、先生の言葉を鵜呑みするしかない状態に居心地
悪さを感じ始めていたこともあり、娘と共に通院を止めた。ただし、夫
だけは「行くと体調が良くなる」と、言われるままに通院する日々。三
年という不気味な言葉もあったので、彼女は、夫の体調管理に気を配り、
三年経つのを待った。
 そして今、彼女は、夫が相変わらず嬉々として通院していることが気
に喰わない。
 しかし、夫にしてみれば、妻が勝手に寝返っただけに見えるだろうか
ら、私は何も言わない。いや、言ったかな。「自業自得じゃない」と。
 まあ、大人は、曲がりなりにも判断力もあれば自活能力もあるから、
自己責任で話は済む。
 それで済まないのは子供だ。親から洗脳されても、離婚のとばっちり
を受けても、親を頼る以外に道はないのだから、大変である。