「なぜ」でなく「どう」生きるか

 私にも、生きることについて、はっきり悩みとまではいかないけれど、
考え込む時期があった。今まったくなくなったかというと、それはなく、
死ぬまで継続して考えるべき部分はある。でも、そうすべきことと、そ
うしなくてよいことの見極めがつき、これまで心の大半を占めていたも
やもやがすっきり晴れ上がったのはありがたいなあ、と思っている。
 私にとって目から鱗(うろこ)の劇薬となってくれたのは、つい最近
知ったウィトゲンシュタインの哲学理論である。
 なぜ生きる。
 生きる意味とは。
 そんなことを考えるのは、人間にありがちなことだが、考えるだけ無
駄。なぜなら、それは言葉の構造そのものの限界が生み出す、あっては
ならない命題だから。
 私の生齧(なまかじ)りの理解によると、ウィトゲンシュタインは、
そう言い放ったのである。
 プラトンデカルトだけでなく、この人のことも授業で教えてくれて
いたらなあ。それとも、私が聞いていなかっただけなのかしらん。
 彼によると「本当の自分」というのもあり得ない。それがあるなら、
嘘の自分もあり、どちらかを選ぶことになるが、自分の胸先三寸でどち
らにも転び、決して客観的に確定できないならば、哲学的命題として取
り上げること自体、間違っていることになる。「私は背が高いですか」
と「私は眠たいですか」は文の形は同じでも、後者はナンセンス、とい
うのと同じだというのである。
 彼の論証が私の胸にすとんとおさまると、誰かが、我々がかくも生き
ることに思い悩むのは、人間だけが“死”の観念を持ってしまったせい
だと言った言葉と化学反応を起こし、私の中で思いが定まった。
 なぜ生きるかを問うてはならない。
 なぜかは知らねど、この世に生を受けた。その根本に、なぜ、と疑問
を感じて究明しようとするのは、高邁(こうまい)な思考のようで、荒
唐無稽な迷路をさまようだけのことになる。
 そうではなく、どう生きるかを問うことである。
 すると、生きるのがぐんと楽になる。今置かれた環境下でどう考えど
う行動すべきか、というわかりやすい目標設定に置き換わるからだ。
 もちろん、必然的に、自殺は論外。
 私なんか生きていても、いなくても、おんなじだと思っても、生きる。
 生きていても何もいいことがない、と心打ちひしがれても、生きる。
 死にたいと思っても、生きる。
 いずれ確実に死する宿命なのだ。そのことに深く絶望して、だからこ
そ、力強く、今この時を輝いて生きるのだ。