都会人向きの親切

 九月に入ったら、大空いちめんの鱗(うろこ)雲----というのは前世
の記憶かと不安になりそうなぐらい、暑い。
 あまりに暑くて、きのうは歩いて十分ほどの距離にバスを利用した。
普段なら空席があっても立つのに、空席に座る。やっぱり、相当バテて
いるなあ、私。
 前の席はおかあさんと小さい女の子だった。この子がじっとしていな
いのだが、バスが終点に着いて、母親が「降りるまでちょっと待ってね」
と話しかける言葉が、なぜか必死。
 バスの床に置かれた折り畳み式バギーに気づいた私は「これ、持って
降りますね」と、バギーをつかむと、先に降りた。
 お礼を、背中で聞くような感じで聞き、大股にその場を立ち去る。な
んか面映ゆくて、そうなってしまうのだ。
 でも、「ありがとうございました」のひと言に、心底思いも寄らない
申し出だったという感謝の気持ちが溢れていて、うーん、そんなにもあ
り得ないことなのか。
 労働力で済むことなら、私は、結構、たやすく手を貸す。
 そうしてもらった感激をパリで学んだからだろう。
「できることは自分でする。できなくても自分でする」のが異国での大
前提と肝に銘じていても、列車のホームから、長い階段に大きなトラン
クをガタンガタンぶち当てつつ登っていると、すっとトランクを持って
くれるようなことに何度か遭遇すれば、親切にできるチャンスにそれを
実行してくれる人への尊敬の気持ちが芽生える。真似をしたいという気
になる。
 ところが、日本でも、幼児とバギーと母親とか、老人とバギータイプ
の手押し車など、階段の上り下りが難関となる人達がいるのに、ほとん
ど無視されてばかりで、なんでなのよ、と苛立ってくる。
 そこに、私が通りかかった理由があるのかもしれないのだが。
 この手の親切は、ドライな都会人にぴったりなんだけどなあ。
 親切と、それに対するお礼の言葉で関係が完結するからだ。
 でも実は、親切にした自分にもっとご褒美がほしいという下心があっ
てもOKなのだ。別の折に、素敵なことが、きっと、自分自身に訪れて
くれる。
 今朝、私は、近くのスーパーのレジで、前に並んだ初老の男性から
「使ってください」と早朝の買い物客向け五%引きのシートを手渡され
た。
 彼のカゴの中を見て、慌てて彼が使うべき二枚を返し、残りをもらっ
た。
 会計が済んだ彼が立ち去る前にもう一度お礼を言おうと思ったら----
彼は、私とは言葉を交わしたことすらない風情で離れていった。
 私の心に残ったのは、小さな幸せ。