サンドウィッチマン

 今年の『Mー1グランプリ2007』の優勝コンビを、私は、その日、
初めて知った。
 漫才のテーマはピザの宅配で、注文した客が「ピザ」と言い、それを
配達人が「ピッザ」と訂正する場面は大いに笑えた。
 どうでもいいことにこだわってしまう人におかしみを感じての、笑い。
 でも、自分自身がこだわる人の立場になったら、どうでもいいと思え
るかなあ。
 ----などと考えていたからではなく、私は「ドーナッツ」と言った。
 すると、英語を教えている中学生に「ドーナツ」と訂正されて、「え
えっ、嘘」
 だって、あのミスドだって、コマーシャルで「ミスタ〜ド〜ナッツ」
と歌っている。「ドーナツ」じゃないでしょ、とまずは歌を思い返し、
次にdoughnutsからnutsを切り離して「木の実」として遣う時、ナッ
ツと言うのであって、ナツとは絶対言わないよね、と確認して、「私は
正しい」----よりもっと強く----「私が正しい!」と鼻息荒くなりか
けたが、そういう理詰めに権力はなく、時代の趨勢に流されるのが言葉
の宿命。
 それに、「ドーナッツ」を是としたい私も、「ドーナッツ化現象」は
幼稚で間が抜けて聞えるから、拒否したいし。
 さて、ドーナツ論争の際、ジュースがこぼれて、私は「鼻紙、持って
きて」と叫んだ。
 確実に伝わる言葉を選んだつもりが、小学生と中学生はその場で、か
らだが硬直。
 今どきの若者は「鼻紙」という言葉を知らず、鼻をかむ紙から来た言
葉を言われたのだと想像すらできないことが判明した。
 私が、懲りずに、同じ気遣いで「いちDK」と言ったら、小学生は、
「・・・ああ、ワンDK」で納得する。
 そのくせ、ゲーム機で犬を飼っている画面を見せて、「おまわりって
言って。犬がおまわりするから」と言うので、「ポリス」と言ったら、
吹き出してくれたのはおかあさんだけ。
 M−1グランプリに話を戻すと、ピザとピッザで笑いを取るなら、自
分達のコンビ名もいじってほしかったなあ。
 サンドイッチマンだと信じて、彼らのほかの漫才を動画で見ようとイ
ンターネットで検索したら、表記間違いで若干の寄り道を余儀なくされ
たのだ。
 外国人が日本語で一番手こずるのは、カタカナ。
 難しい漢字が書けるのに、なぜ。小馬鹿にされたようで気が狂いそう
になるけれど、glassがグラスにもガラスにもなる日本語だと気づけば、
気が狂いそうになるのは彼らの方だとわかろうというもの。
 日本語が母国語でよかったと思う私である。