「英語で授業」で、抜け落ちるもの

 日本人は、英語を習っても英語を話せない。ああ、なんて嘆かわしい、
ということらしく、高校の新学習指導要領案で、「英語の授業は英語で
行なうのが基本」と公表された。先月二十二日のことだが、以来、どう
なのかなあ、と私なりに気になっている。
 この宣言を真に受けると、まず反射的に、それはあまりに無謀、と思
う。
 今、私は中学三年生の英語の家庭教師を引き受けているが、一年生の
最初のレッスンの時、こんな説明をした。
「英語は、数えられる物は一つか一つ以上かを区別したがる。でも、日
本語は〃あ、鳥が飛んでいる〃と言うだけで、何羽なのかは気にしない。
言われた方もそうで、もし知りたいなら、〃ふーん、何羽〃と続いて聞
けば事足りる。日本人は、話すしょっぱなから単数と複数を区別する必
要を感じないってこと。英語やフランス語は、そこを区別したがるけど、
だから偉いとも言えない。だって、複数の範囲はあまりに大きすぎて、
わざわざ一つじゃないと強調する意味があるのか、よくわからないじゃ
ない。でも、それぞれの国の言葉には、その国の人達の意識や無意識が
反映されていて、外国語を学ぶって、そういう考え方を学ぶことでもあ
る」。
 不規則動詞を学ぶ時期が来ると、「丸覚えしなくちゃいけないことに
腹が立つかもしれない。でも、そういう特殊な言葉も覚えられたら、言
葉を使うゲームで、より強く、有利に闘える」。「日本語は、いっぽん、
にほん、さんぼん、って、鉛筆を数えるだけでも、ッポン、ホン、ボン
と語尾が変わる。日本語を勉強する外国人の大変さを思えば、英語の不
規則動詞ぐらい、ちょろいもんよ」。
 To see is to believe.が Seeing is believing.に言い換えら
れると学ぶ時が来ると、どちらも同じ意味なら表現方法は一つでいいと
思うかもしれないけれど、と、もし私が中学生ならそう口を尖らせたく
なりそうな思いを先回りして言ってから、「私ガ買った本。私ノ買った
本。ガでもノでも意味は同じなのに、日本語には二つの言い方がある。
英語にも、そういうのがあって、知らないと困る」と説明。
 オオッと驚いてくれると、ね、言葉っておもしろいよね、とにんまり。
 もちろん、言葉はルールであるからして、主語や述語、形容詞という
文法用語も多用する。
 ところが、高校の英語の授業は「実際のコミュニケーションの場とす
る」そうで、文法を、中学より深く掘り下げることは必要ない、という
ことなのだろうか。