ネックレスを紛失

 中学校の学年同窓会があった。
 会場に着く前に、ネックレスをなくした。
 遅刻しそうになり、バスで地下鉄まで行こうとしたら、バスが来るの
は三分後。それなら歩いても大差ないし、歩いた方がいらいらバスを待
つよりいいと早足で歩いたからだろう。
 地下鉄に乗った途端、暑くて汗が出てくる。
 コートの下の上着を脱ぎ、またコートをはおってと、そんなこんなを
しているさなかにネックレスが落ちたのだと思う。
 焦るとろくなことはないと手痛い教訓に落胆しつつ、事の次第を話し
たら、友が一言、
「縁起悪いね」。
 え。
 続いて、高価な壺か魔除けのブレスレットを買うべきだと言い出すの
ではないかと、私は、一瞬、本気で身構えた。
 大学生の時、手鏡が割れて不吉がったら、男の子が「落ちたら割れる
のは当たり前」と言ってくれ、そうか、事実をしっかり見極めれば、無
意味に怯えることにならないんだと学んだおかげで、「縁起が悪い」と
言われても青ざめないし、むしろ、そんな根拠のないタブーを口にする
人は、その人自身もその手の発想に絡め取られ、生きるのが窮屈になり
そうだけど大丈夫、と心配してあげる余裕まであるぐらいだ。
 だって、落としたネックレスは、首の後ろで手探りで留めた際、もし
最終的にコレをしてゆくなら、ちゃんと留まっているか確かめなきゃと
ちらっと思った。つまり、留めた時の感触に不安を感じていたわけだ。
 また、地下鉄では、降りる駅に到着する前、扉まで移動して、ところ
が、なぜか座っていた場所を振り返って見たくなり、それはしたものの、
さらにその上、座席まで戻って忘れ物がないか見たい気分になったのは、
バッグも紙袋も手に持っているじゃない、と強引に自分自身に言い聞か
せることで、実行しなかった。
 天は、ちゃんとサインを送ってくれていたのに。
 脳外科医は、たった一度の手術ミスも許されない。
 この程度ならという根拠のない楽観は御法度で、日常生活の中では、
手前のコップを飛び越えた向こうの物を取りたいなら、まずコップを脇
によける。そんな風に、普段から、完璧に危険を回避する行動が身につ
くよう訓練するのだとか。
 ああ、私の、なんと無防備に一か八かの賭けに頼っていたことよ。
 自信過剰であることよ。
 それで、不必要にお茶をこぼしたり、ネックレスをなくして、おたお
たするのだから、愚かとしか言いようがない。
 来年の目標は、この賭博的な性格の改善に決めた。