「書く」ことの価値

「私が生きている意味って、何」
 このつぶやきにはなんの同情も覚えないと、私は告白した。
 一応、そうつぶやきたくなる気持ちをあれこれ想像した上でのことだ
が、想像し切れなかったケースはないかなと、ちょっと気になってきた。
 人間関係で心が打ちのめされている場合であれば、自ら働きかけてそ
うなっているのではなく、目立たぬように振る舞っても、目を付けられ、
理不尽なことを強いられているような場合だ。
 でも、そういう時は「生きているのがつらい」という表現になりそう
な気がする。
 身を引きちぎられるような別離に直面し、心に嵐が荒れ狂う時も、呻
くように「つらい」と言葉を洩らす。あるいは「生きているのは虚しい」
と思う。言う。
 それでも、「私が生きている意味ってあるの」という表現は思い浮か
ばないんじゃないか。
「つらい」とか「虚しい」と言う人には、私が具体的にしてあげられる
ことは何もないかもしれないけれど、どうか時間を耐えて、今あなたが
いる場所から明るい日差し溢れる場所へと歩いていってほしいと願う。
 この差はなんなのか。
 つらい、苦しい、哀しい、虚しい・・・そんな負の感情を自分自身の
心の中に突き止めるのは勇気がいる。その代わり、それができたら、目
指すべきたった一つの方向は、自然にわかる。喜びや幸せといった、今
の対極が目指す方向になるからだ。
 ところが、「生きる意味」と言い出すと、向かうべきたった一つの方
向というものが定まらない。ということは、定まらない方がいつまでも
真剣に悩んでいるつもりになれるから好ましいってことなのと勘ぐりた
くなるし、そのために、自分の本当の気持ちを見極めないで、そういう
道に逃げてるんじゃないの、とも言いたくなる。
 まあ、要するに、まだ徹底的には困り果てていない、まだ心に余裕が
あるってことだから、同情はいらないわよね、と私としては反応したく
なるわけだ。
 ただ、これは、私自身の語感による「生きる意味って何」の受け止め
方であって、ほかの人は、別の感性で、まったく違う風に理解をし、も
しかしたら、「生きる意味」と口にする精神を高く評価しているかもし
れない。
 知りたいなあ。
 聞きたいなあ。
 が、こういう話題は、ぽん、ぽん、ぽんとテンポよく言葉をやりとり
する会話では成立しにくい。
 自分の考えですら、書いて、自分の心を見つめなくては、整理がつか
なかったりするからだ。