説得のコツ

 母が私の意向を無視して勉強用の椅子を買ってきたのは、私が中学に
上がる前だったが、中学一年の冬には、勝手にウールのコートを買って
きた。
 幅の広い丸襟に、ズドンとしたシルエット。
 うわっ。ダサッ。
 私は暗澹とした気分で、妻が買ってくるネクタイの趣味が悪すぎるの
で、もうネクタイは買ってくれるなという思いを込めて、新品のネクタ
イを手渡されるとハサミで切った、という誰かの文章を思い出した。
 そうされる妻の気持ちを思うと真似できなかったが、私がどう母を納
得させ、そのコートがなぜ二度と私の目に触れなかったのか、記憶がな
くて、今頃、ちょっと気になる。
 ところで、椅子やコート事件が起こる以前の私にとり、母が買ってき
てくれる物はどれも最高。つまり、母は「天才」に見えていた。
 母と娘の蜜月だったんだなあ。
 しかし、蜜月が終われば、親が子を思い通りにすることは何一つでき
ないのかというと、そういうことはない。
 フランスにいた時、その母親は、小学生の息子に買い与えたい腕時計
が心の中で決まっていたらしい。
 店で、陳列されている腕時計を指差し、それぞれの良さを解説するも、
お目当ての時計に来ると、
「コレは配色が格好いいわねえ。そう思わない。あなたの好きな色だし。
ね、コレが一番素敵なんじゃない」
 口調が熱を帯び、誘導作戦、見え見えだ。
 やがて、
「どれにする?」
 母親に最終決断を求められると、息子は、母の勧める時計を選んだ。
 選ばせられたのに、自分で選んだ気になっている。
 あ〜あ。フランス人でも、やっぱり、子供は幼いねえ。
 だが、言葉巧みに誘導するには、それなりの外交戦術が必要。問答無
用で押しつけるより頭も使えば、時間も使う。
 別の家では、家族で買い物に出かけるというので、私は留守番すると
言ったら、小学生の娘ががっかりして、母親に相談に行った。
「じゃあ、買い物をしているあいだ、菊とあなたはスクビドゥーを選ん
でいればいいわ。そう言ってみたら?」
 その子は走って戻ってくると、私にも聞こえていた母の入れ知恵を口
にした。
 外出が面倒だっただけの私は、そうまで言われたら、
「じゃあ、行くわ」
 譲歩するしかない。
 が、説得されたのだとしても、自分の意志で受け容れた、という思い
は潔さを生む。
 あとで文句を言ったり恨んだりすることは起こり得ない。
 どうせなら、そう説得されたい。
 大人の人間関係にも十分役立つ戦術であろう。