死で怖いのは

 手を挙げる。
 足を一歩踏み出す。
 そうしたいと思えば、そうできる。
 そんなの当たり前。
 もしできない場合は、なんらかの病気を疑うであろう。
 けど、鳥にそこまでの知恵はあるのかなあ。
 私の五歳を過ぎたカナリア、ピィは、もう止まり木に止まれない。
 雀みたいにぴょんぴょん地べたを飛ぶこともできない。
 足が、自分の意志と無関係に突然硬直するような感じになり、その上
に乗ったからだが思いもよらない方向に崩れる。だから、足場を安定さ
せる止まり木代わりの藁の巣から、地べたに置いた餌入れまで飛び降り
ること自体、今や命がけの冒険になっている。
 昔はあんなこともこんなことも普通にできたのに、なんてピィは心の
中で戸惑っているかなあ。
 この未知なる局面に突入したピィを初めて見た時、私は、彼を自然の
中に解き放すことを考えた。
 苦しみを長引かせず、自然の力で死なせてやりたい。
 だって、このままじゃあ苦しいだけで、生きている意味がない。
「生きている意味」は、ピィが元気な時にも考えた。
 美しい声で鳴いてくれるピィは、私にとって心安らぐ大切な存在。
 でも、ピィ自身はどう思っているんだろう。
 良く鳴き、良く食べ、水浴びして、一日が終わる。
 毎日その繰り返し。
 生まれてこの方、雌とつがったこともない。
 それでも幸せなのか。
 なんて傲慢な発想だったろう。
 それは、ピィ自身が感じること。
 幸い、ピィは、からだが思うように動かなくなっても、決死のダイブ
で藁の巣から地べたに降り立ち、陶器の餌入れか、地べたに落ちた餌を
食べることに日々果敢に挑んでいる。
 途中で足が硬直し、からだがコテンと横倒しになり、時になかなか体
勢を立て直せないこともあるけれど、でも、めげない。
 生きるってこういうことなんだなあ、と私は学ぶ。
 願わくは、ピィが息を引き取る少し前からの時間が心安らかでありま
すように。
 そう祈る私であることから、私は、私自身の死に対する恐れがその一
点にあることに気づく。
 まだ死が身近じゃないお気楽さのせいか、死そのものは怖くない。
 でも、息を引き取るその瞬間、激しい苦しさと、それを知覚する最期
を越えなくてはならないとしたら、恐怖だ。
 ただ、この考え方だと、銃で撃たれる即死はかなり理想で、というこ
とは銃で狙われるような極悪非道の生き方も正解?! みたいになりかねな
いから、うーん、何かが間違っているはず。
 ま、とにかく、私は、死ぬ瞬間が苦しいなら、怖い。
 眠るように逝くコツってあるのかなあ。