コンフォート・ゾーン

 西原理恵子の漫画をまとめ読みしていると、頻繁に、
「こないだ」
 という言葉に遭遇。
「この間」
 は一回見たが、あとは全部、「こないだ」。
 そうかあ。この人、話す時は基本、「こないだ」なんだ。
 文章を書く人間の言葉選びは、得てしてわざと時勢に乗り遅れる。は
やり言葉は息長く生き延びるか否かがわかりかね、のちのちまで文意が
正しく伝わってほしいと願うと、そういうものに手を出すのが遅れるの
である。
 が、白い浜がなまって「しらはま」、雨の傘が「あまがさ」となった
日本語の歴史を思えば、「この間」が「こないだ」となまって縮まるの
は自然の流れかも。少なくとも、「むずかしい」を「むずい」と省略す
るよりよっぽど受けつけやすい。
 などと考えていたら、今頃読み始めた手塚治虫の『火の鳥--鳳凰編』
に、
「こないだ」
 を発見。
 初出は一九六九年。ということは四十年以上、「この間」と「こない
だ」が共存しているってこと?! 
 うーん、それはそれで驚きだ。
 ところで、西原理恵子は、生まれ故郷の女の子達に共通の夢なき未来
を憎悪し、「絶対ああはなりたくない」と強烈に思った。それが今の成
功への扉を開いたと、彼女の回想漫画を読み、私はそう理解しているが、
すると、苫米地(とまべち)英人が言う「コンフォート・ゾーン」のル
ールからはずれることになる。
 自分自身を煽るように輝かしい未来を思い描き、途中まで順調にいっ
ても、あるいは成功に手が届いても、その後転落して元に戻ってしまう
のは、成功したあとの新しい人間・経済・仕事環境を「なんかしっくり
こない」と感じるせい。
 人にはそれぞれ、自分が一番心地好いと感じる「コンフォート・ゾー
ン」がある。意志の力でねじ伏せても、いずれそれが顔を出す。
 今より高い未来を望むなら、そこに到達した自分を、そっちの方が本
物、と今の時点ですでに強力に実感し、一方、現実の自分自身は、
「こんなの、本当の私じゃない」
 と激しく否定する。
 そういう心理状況になれたら成功すると苫米地は説く。
 が、西原の例を見ると、未来の幸せな「コンフォート・ゾーン」は創
造できなくても、自分の今を徹底的に嫌悪できたら、やっぱり現状を打
破できるのではないか。
『パーマネント野ばら』の原作を図書館に予約していたのが、ようやく
手に入り、読んで思った。
 おんな達が平然と語る男女間のどろどろを、映画ではどこまで忠実に
表現されたのだろう。
 DVDで確かめるほどの気力はない。けど、ちょっと気になった。