未来の私、過去の私

 杖代わりに、右か左側に置いて押す、四つの車輪が付いたショッピン
グカートを使う人が増えている。足元がおぼつかなくなったら、その車
輪はするする進むので危なくなるから、そこまでは年齢がいっていない
人達である。
 駅で乗り換えるホームに向かう階段に足をかけたら、階段の手すりを
持ち、横押しカートを一段上の階段に置いては自分も一段上がる、とい
う風に階段をのぼろうとしている女性の真横であった。
 電車が到着した気配。
 駆け上がらないと、乗れなくなるかも。
 しかし、一台乗り過ごしても間に合う、と判断して、私は立ち止まり、
そのカートに手をかけた。
 その人は驚いたような表情で私を見た。
「足が悪くて・・・」
 弁解のように言う。 
 私がカートを引き受けると、彼女はやっぱり一段ずつしか階段を上が
れないが、一歩一歩が速くなった。
 彼女が左手で握り締めているカートの上の部分から手を放してくれた
ら、もっと楽にのぼれるだろうにな。
「手を放してくれても、私は取ったりせぇへんから」
 苦笑して言うも、彼女の手は離れない。
 ホームに着いたら、電車はまだ扉が開いている。
 礼の言葉を背中で聞き、電車に飛び乗った。
 実は、こういうことは、誰かに話したり、書いたりすると、そういう
ことをしなかった場合なら陰徳になったかもしれないことが、そうなら
なくなる、と思っている。勝手にそう思っている。誰かに褒められると
いうご褒美を先に手にしたら、もう陰徳というご褒美はもらえない。
 まあ、よい。
 私は、その時は、ちょっと私の時間を割いてその人に手を貸しても私
が困ることにならないから、そうしたのであった。私にやすやすとでき
ることが、その人にとって、ものすごく助かるのなら、と思った。
 目の前の困っている人は、未来の私。
 未来の私が困った時、誰かが今の私のように手を差し伸べてくれたら
助かるだろうなあ、と思ったなら、気づかなかったことにして無視でき
ない。
 目の前の人は、未来の困っている私。
 では、私より若い人達の場合は。
 彼らが未熟さゆえに出来なくて困っていると察知でき、手を貸すこと
が甘やかすことにはならないと思えたら、やっぱり手を差し伸べる。
 たぶん、昔、私が彼らの年齢だった頃、私自身は気づかなかったかも
しれないけれど、そうやって力を貸してくれた誰かがいたはずだと思う
から。もし実際にはいなかったとしたら、もし、いてくれたら、過去の
私は嬉しかっただろうなあ、と思うから。