オリジナル考

 筒井康隆の『時をかける少女』。
 よく聞き知る題名ながら読んだことはなかったが、ついに図書館で借
りてきて読んだ。
 誰かがどこかでこの本を引き合いに出しているのを読んだからだった
と思う。その情報源は、記憶力の省エネのためにさっさと忘れてしまっ
たけど。
 最後までかび臭い匂いがしたし、はがれそうなページもあって、やっ
ぱり一九七八年出版の本だけのことはある。
 ところで、同じタイトルの映画もあったはずとインターネットで調べ、
あらすじが載っているのを読んだら、原作からはかなり飛躍している感
じがする。それでも原作は小説だと明記されていて、オリジナルは権威
があるんだなあ。
 そう学んだからか。
 苫米地(とまべち)英人が、人は、肉体を人工物で置き換えれば、寿
命を二百歳まで引き延ばせると述べ、脳の大部分までも人工脳に置き換
えられる時が来たら、人間とは何かを再定義する必要に迫られるだろう、
が、百パーセント人工脳になっても人間だと定義できる、なぜなら・・
・と持論を展開しているのを読んだ時、私は、おお、臓器移植や義手義
足、もっと卑近な入れ歯や差し歯だって、人工物で肉体の足りないとこ
ろを補うという実践になっていると気づかされた。
 同じ物を見ても、賢い人は視線の高さが別格。尊敬してしまう。
 ところが、その後に『火の鳥--復活編』を読むと、なーんだ、手塚治
虫はもうとっくにそういう未来を描いていたのね。
 漫画の主人公は、身体の半分以上を人工物で置き換えられた自分自身
は人間なのかロボットかと悩んで、「ロボットになりたい」とうめくし、
大量生産のロボットは「ワタシハ ニンゲンデス」と言い出すしで、私
達に深い問題意識を突きつけてくる。
 じゃあ、このテーマに関するオリジナルは『火の鳥』?
 でも、私がこの漫画を知らなければ、苫米地がオリジナルだと私は思
い込んでいたってこと?
 だが、たとえば、日本の新興宗教の教義は、神道と仏教の良いとこ取
りでできていて、まるっきり一からのオリジナルは存在しない。生きる
上で心の支えになる教えが教義だとするなら、日本人の心に響く教えは
日本人に共通のものになってしまうからだろうか。
 現代の西洋のファンタジー物語では、ユニコーンやトロル、ドラゴン
など、いつ誰が創り出したのかわからない伝説上の生き物が作者流のア
レンジにより生を得る。
 ならば、オリジナルか否かの境界線はどう見極めればいいのか。
 わかった気がしたけど・・・次の瞬間、霧の中。