人は、言葉

 人は言葉を手に入れた。
 ただ、言葉の世界は一人一人異なるし、普通、女性の方が男性より言
葉が達者だと言われ、そういう女性が言葉で男性を攻撃すると、反撃で
きない男性はつい手が出る。
 だったら、言葉か暴力、どちらか得意な方を使って闘えばいいんじゃ
ないの、と思いそうになることはあった。
 しかし、四年前に十六歳で亡くなった少年の話を知ると、心の揺らぎ
は止んだ。
 その少年は、事故で一歳の時から寝たきりになり、ほとんど筋肉が動
かない中、身体障害者用の文字入力ソフトを使って文章を綴れるように
なると、彼の興味の広さ、思考の深さが人々に伝わるようになったそう
な。
 やっぱり、言葉こそ、人である証しなんだ。
 武器と見るなら、人を人たらしめる唯一の武器。人は、言葉という武
器を磨いて磨いて、磨きぬく道を行くべきであろう。
 暴力は、その道から降りること。ゆえに、人として手を抜く生き方と
なる。
 それに、暴力で相手の言動を制御することはできても、心までは制御
できない。
 ではあるけれど、言葉による共感を目指し、到達できたと思っても、
そう感じて悦に入っているのは片方の人間だけで、もう一方は、
「なんか説得された」
「丸め込まれた」
 と不満が心の中にくすぶり、
「この人とはわかり合えない」
 と結論することもある。
 時間をかけ、言葉を尽くしても、そうなる可能性がある。
 同じ事でも、あの人に言われるのなら聞く耳を持つが、この人なら嫌、
とか、言葉より感情に動かされることも多いから。
 言葉のコミュニケーションには、不確定要素が付きまとう。
 でも、そういうものであるならば、怒らず、嘆かず、
「まあ、そういうものなんだから、仕方ないじゃん」
 と、ひょうひょうとした態度で臨んではどうだろう。
 思った展開にならなくても落ち込まないよう、あらかじめ諦めておく。
 腹を括っておく。
 達観しておく。
 ところが、暴力の即効性に頼る人は、
「いや、それでは困るんだよ」
 と考えるのではないか。
 なぜ。
 焦りかな。
 どんな言葉が相手の心に響くのか。マニュアルなき道は不安だし、思
ったような展開にならないと歯痒くて、どうしていいかわからなくなっ
て、焦る。
 でも、なぜ焦る。
 成果が出ないと困るのだろう。
 成果を出すのも出さないのも、自分ではない他者。ということは、ど
ういう結果になろうとも、その責任を自分が百パーセント負うことはで
きない。
 なのに、何が、そう割り切ることを許してくれないのだろう。