親の心得

 名医と名伯楽。
 どちらの「名」にも「すぐれた能力のある」という意味がある。
 でも、絶対、名医の方がなりやすいと思う。
 医者は本人の腕が良ければ、名医になれる。
 しかし、名伯楽は、教わる側の潜在能力が必須条件。
 そこをしかと理解するならば、
「いや、私が指導すれば大丈夫」
 と安請け合いはできなくなるだろう。
 な〜んて、わかったようなことを言う私自身、実はその轍(てつ)を
踏みかけていた。
 個人的に英語のレッスンを引き受けた場合、私は、
「成績は重視しない」
 と言う。
 試験で間違うのには、いろいろな要素があるからだ。
 ただ、答案が返ってきてミスした箇所を見直したら、正しい答えを自
分の頭で理解できる。
 そのレベルにまでは持っていく。
 そうできる自信があった。
 ところが、五歳の時から教えていた子が小学生になると、英語どころ
か学校の授業にもついていけない様子になり、私の自信は砕け散った。
 その子は、九歳の今もアルファベットを全部書くことができないが、
英語用の罫線上におさまる字を書けるようになった、とか、それなりの
進歩はあるので、そこに目を向け、
「学ぶということは、頭を使うことは、楽しいよね」
 と実感してもらえるようなレッスンを目指すことにした。
 それで良しとしてもらえている理由はただ一つ、親が過剰に期待して
いないからだ。
 子供の勉強にお金をかければ、それに比例して子供の学力が向上する
とは限らない。
 親は、そこのところは肝に銘じて了解しておくべきであろう。
 そうでないと、いくら教える側が、
「力を尽くして教えるけれど、教わる側の能力ってのもあるからなあ」
 と達観しようとしても、生徒の背後に控える親からのプレッシャーで
板挟みになるし、子供自身がいじけることにもなりかねない。
 小六と中三の全国学力調査の学校別成績を公開するかどうかで揉めて
いるそうだが、反対派の意見は、公開すると学校の序列化が起きてまず
いということらしい。
 生まれ持った能力に差があることを心の底から認めていれば、隠そう
とする発想の方がいやらしいとわかるだろうに。
 君は勉強はそんなにできない。
 でも、そういう君には、たとえば、こういう道で輝く方法がある。
 そういう未来を示唆することもせず、ただガチガチに学力至上主義の
まま。
 そりゃあ、教育現場は教育の成果が問われる場で、勉強のできる子の
産出が最大目標なんだろうけど、そこからこぼれ落ちる子達への愛があ
まりになさすぎはしないか。