権威も疑う

 書評が本を読むきっかけになることは多い。
 が、その書評の切り抜きが、いつの間にか、なくなっている。
 本を読み終わり、良い本と出会えてよかった、そのきっかけを与えて
くれた記事にはどう書いてあったっけ、と探すと、神隠しにあったみた
いに見つからないのだ。
 たぶん、本を入手する手はずを整えてから、捨てた。あるいは、どこ
にあるか思い出せないような所に置いた。
 手元にあると、書かれた意見に惑わされて、私自身の判断が鈍る。
 そう思い、半ば神隠し大歓迎のつもりでいるのに、「ない、ない」と
悔しがることがあまりに頻発。この手の断捨離はよろしくないというこ
とかも。
 ところで、なぜか、『機動戦士ガンダム』を経済論に絡めて推奨した
記事だけは手元にあった。
『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』の著者、公認会計士山田真哉が、
ガンダムに金銭の話がほとんど出てこないのは、経済を動かすのは人口
と資源とエネルギーであって貨幣ではないからで、経済の本質をわかっ
ている、と賞賛。
 私が読書欲をそそられた漫画の論評は、書く人は違っても、皆、作品
の世界観や本質に切り込む鋭い視点を持っていた。
 私だって読めば同じ気づきに到れる、と思いたいところだが、大学時
代に、
「この小説はどういう意図で書いた、とか要約も載せてほしいわ」
 と言って友人に苦笑されたことがあるぐらい、筋に翻弄されて終わる
私。
 小説は、文字のみという地味の極地の手段を用い、読む人の想像力を
最大限引き出す。その魅力にはまって小説に淫する私だが、読者として
は最低レベルかも。
 ただ、書評と言えば何はさておき小説だろうに、慧眼の漫画論評はち
らほらあるが、小説の書評で同じレベルのものは滅多にない気がするの
は、小説自体がへたってきているせいか。
 いやいや、書評や批評に頼ろうとする姿勢がまず問題、と考えるべき
か。
 それでも、やっぱり、人は誰かの評価を頼りたくなるものなんだろう
なあと思わせられたのが、このところの食の偽装騒動だ。
 伊勢のホテルで、割増料金を払えば伊勢エビが付くというので注文し
たら、目を疑うしょぼいエビが出てきて驚いたが、あれも偽装だったの
かなあ。旅行中の高揚した気分を優先して、笑って済ませたけど。
 普段なら、私はもう少し疑い深い。
 生の林檎をすってジュースにしたらいくらかかるかを考えたら、生ジ
ュースがその値段であり得るのか、と考える冷静さはある、というよう
なことだ。